第165回芥川賞受賞会見(全文)石沢麻依さん「どう言葉をつくり上げていくか」
「復興五輪」への違和感について
河北新報:ありがとうございます。ご自身も体験された震災を題材にした作品での受賞ということで、とても意義深く思っています。今回の小説を書く動機の1つに「復興五輪」という名前への違和感とか危機感もおっしゃっていました。来週にはもう開幕になるんですけれども、「復興五輪」の言葉によって実際には進んでいない復興の現状がゆがめられるとか、記憶が変わってしまうかもしれないという危機感をおっしゃっていました。今回の作品が1つ、記憶のモニュメントみたいになったらいいなという希望もあるんですけれども、この点に関しましてお感じになっていることがありましたらお願いします。 石沢:やはり現在、コロナ禍という状況もありますし、そしてさらにそこで復興というふうに後付けの、もともと当初から復興というものを盾に取って行われていた五輪ですけれども、今も何か、時々思い出したように復興というふうに言い訳がましく引き出されるメッセージだなというふうに非常に、まずニュースを見るたびに、そのような感じはいたしていました。 そして作中でも、例えば実際に引き裂かれた沿岸部とか原発避難区域と、そしてほかの、まちが引き裂かれている印象、二重の印象、そしてそこに無理やり復興という仮面を押し付けるというその行為。それによって何か、きれいに化粧を施された顔で、私たちはそれを見て何か満足している、しようとしているのではないかという、そういう危惧感。そしてそれが逆に過去であったり、かつてのあの出来事であったり、それが今も引き続いていることをゆがめて、正しく捉えられないかという、そういう思いもあります。
一丸となって終わったら解散。そして何か取り残されていく
さらにオリンピックというのはやはりどうしても非常に、一丸というメッセージ、例えば今回ですと絆というメッセージが取り上げられますが、その一丸性みたいな、そういう共感やエモーショナルなものっていう、そういう動きを用いて、そのエモーショナルなものを無理やり何か、この状況下であったり、被災地とかそういう震災、あるいは現在も起きている、今年ですと静岡の熱海の土石流の被害もあった地域ですけども、そういうふうに何か、無理やりそういうふうにエモーショナルなもので、そういう感情的に、さあ私たちはみんなで一丸となっている、で、終わったら解散。そして何か取り残されていく。 そして、でも、そのエモーショナルなものが自己カタルシスだけにとどまってしまって、それ以上続かない。そしてそのまま何事もなかったように、ああ、それはもう過去のことですからっていうふうに置いてきぼりにされていくことが、私はすごく恐ろしいと、その点も怖いというふうに思っています。 河北新報:ありがとうございます。すみません、最後にもう1つなんですけれども、石沢さんの書かれた作品が大変凝った文体で、レトリカルで、個性的な文学を目指しているという高い評価がありました。これについてご感想を教えてください。 石沢:もともと私がどうしても、もともと私は小さいころから、例えば母親が若いころ読んでいた蔵書などが私の部屋の、子供部屋の本棚にもあふれていたので、学校の図書館よりもそっちのほうを引っ張り出すことが多かったですし。 あとはやはり、古典的な何か、現代的なものを、変なことを言いますと、やっぱり文章とか、そして考え方とかそういうものは、まずは古典を読んでから、読まないといけない、読まないといけないというよりは、自分がそういう、昔考えた人たちと自分の考えとの間っていうか、その隔たりというものがあるのか、ないのかというのは、やはり非常に小さいころから興味はありましたので、そういう点でずっと読んできたと思いますし。 あとはずっと、中学校以降も古い、高校、大学とずっと古典的なほうを主に読んでて、あと、これは個人的状況でもあるんですけども、私は今ドイツにいるのでなかなか新しい、新刊を買うことが難しいと、輸送料も掛かりますし、お金もそんなに使いたくても使えないので、古い本を読み返す、手元にある古い本を読み返す、古典文学を読み返すということで、それがたぶん文章に影響として表れているのではないかなというふうには感じています。 河北新報:分かりました。どうもありがとうございました。 石沢:ありがとうございました。