古代エジプトを象徴する石柱オベリスク、なぜ祖国に少ないのか、パリやNYにはどう渡った?
最多13本がローマに、王や皇帝たちを魅了した建築遺産の物語
オベリスクは古代エジプト文明を象徴する建築遺産の一つだが、現在のエジプトでその姿を見ることは少ない。元々は太陽神ラーのために建立され、しばしば2本1組で神殿の入り口に置かれていたが、やがてエジプト国内だけでなく国外でも注目され、戦争の戦利品や国家間の贈り物、歴史的遺物として世界中の権力者たちが欲しがるようになった。 ギャラリー:パリのコンコルド広場など、オベリスクの写真13点 エジプト人以外で初めてオベリスクに魅了されたのは、アッシリアの王アッシュルバニパル(在位紀元前669~627年頃)だった。紀元前664年に古代エジプトの首都テーベを略奪した後、2本のオベリスクをニネベ(現代のイラク北部)にある自分の王宮に運ばせた。 古代ローマ帝国にも、エジプトから運ばれたものや国内で作られたものなど、様々なオベリスクが立っていた。現在、エジプトで建造されたオベリスクは米ニューヨーク市、トルコのイスタンブール、フランスのパリにも残っている。 オベリスクという名称は、ギリシャ語で「小さく先がとがった柱」を意味する「オベリスコス」が由来だ。エジプトでは「テケン」と呼ばれていたが、その起源は定かではない。主に花崗岩から作られ、断面が正方形の柱で、上に行くほど細くなり、頂点は小さなピラミッドの形をしている。
最古のオベリスクは太陽の都で
最古のオベリスクは、紀元前3000年紀の初頭に、エジプト北部にある太陽神ラーの都ヘリオポリスに建立された。ヘリオポリスとはギリシャ語で「太陽の都」という意味だが、古代エジプト人は、この町を「イウヌ(柱の都)」と呼んでいた。オベリスクの細長い形は、太陽光線を表している。 エジプト中王国時代(紀元前1975~1640年頃)以降、オベリスクの建造はエジプト全土に広まった。しかし、現在よく知られているような背の高いオベリスクが建てられるようになったのは新王国時代(紀元前1539~1075年)のことだ。 古代エジプトのオベリスクのうち、2本とも元の場所に残っているものはない。最後の1組となったのは、ラムセス2世(在位紀元前1279~1213年)がルクソール神殿の門の前に築いた2本のオベリスクだが、そのうちの1本は1830年にオスマン帝国のエジプト総督であったムハンマド・アリによってフランス国王に贈られた。 これは1836年にパリのコンコルド広場に据えられ、現在もそこに立っている。