古代エジプトを象徴する石柱オベリスク、なぜ祖国に少ないのか、パリやNYにはどう渡った?
国外へ持ち出される
新王国時代以降もオベリスクの建立は続いたが、サイズは小型化していった。そして、プトレマイオス9世ソテル2世(在位紀元前116~107年、前88~81年)が、エジプト南部のアスワン近郊にあるフィラエ島のイシス神殿に建立したものを最後に、エジプトでのオベリスク建造は途絶えた。 しかし、紀元前30年のローマ帝国によるエジプト征服を機に、国外でオベリスクへの関心が高まった。 エジプトからローマへオベリスクを移送し始めたのは、皇帝アウグストゥス(在位紀元前27年~西暦14年)だった。それ以後、ローマ帝国が崩壊するまでいくつものオベリスクがローマに運ばれた。 当初これらは、ローマがエジプトに勝利したことを象徴する戦利品とみなされていたが、後にローマにおいてエジプトの宗教への関心が高まると、オベリスクの象徴的かつ宗教的な重要性が評価されるようになった。現在、ローマには13本の古代エジプトのオベリスクが立っている。これは他のどの都市や国よりも多い。
ローマの競技場に置かれたオベリスク
アウグストゥスが紀元前10年に初めてエジプトからローマに持ち帰った赤い花崗岩のオベリスクは、古代の戦車競技場チルコ・マッシモの中央分離帯に置かれた。 このオベリスクは、セティ1世の時代に建造が始まり、ラムセス2世とその息子のメルエンプタハが完成させたもので、高さは約24メートル、重さは約235トン。 アウグストゥスはこれを、ヘリオポリスから全長30メートルの船に載せて運び、プテオリ(現在のナポリ湾に面した町ポッツオーリ)の造船所に展示した。 さらに西暦357年、ローマ皇帝コンスタンティウス2世(在位337~361年)は、即位20周年の記念に、テーベのカルナック神殿から2本のオベリスクを運ばせた。古代エジプトのファラオ、トトメス3世(在位紀元前1479~1425年)によって建立されたもので、30メートルという世界一の高さを誇るオベリスクだった。 コンスタンティウスはまずこれらをアレキサンドリアに運び、そのうちの1本をチルコ・マッシモに設置するためにローマに運んだ。2本目はそのままエジプトに残されたが、西暦390年にローマ皇帝テオドシウス1世が、競馬と戦車レースの競技場に飾るため、コンスタンティノープル(現在のイスタンブール)に運ばせた。 それから数百年がたち、チルコ・マッシモは廃墟となり、2本のオベリスクも折れて地中に埋もれた。しかし1587年、ローマ教皇シクストゥス5世の命により発掘されたあと修復され、アウグストゥスのオベリスクはポポロ広場に、コンスタンティウスのものはサンジョバンニ・ラテラノ大聖堂前の広場に設置された。