古代エジプトを象徴する石柱オベリスク、なぜ祖国に少ないのか、パリやNYにはどう渡った?
バチカンのオベリスク
西暦1世紀、現代のバチカン市国があるバチカンの丘に、ローマ皇帝ネロの円形競技場があった。ネロは、ローマの大火の責任をキリスト教徒に負わせ、使徒ペテロを含む多くのキリスト教徒をこの円形競技場で処刑した。競技場の中央には、皇帝カリギュラ(在位37~41年)が即位1年目に持ち込んだ碑銘のないオベリスクが置かれていた。 1世紀のローマの学者大プリニウスによると、このオベリスクは、中王国時代にファラオであるセンウセレト1世の息子によって作られたものだという。 西暦4世紀、キリスト教に改宗した皇帝コンスタンティヌス1世(前出のコンスタンティウス2世の父親)が、バチカンの丘にある使徒ペテロの墓の上にサンピエトロ大聖堂を建設した。このときすぐそばに立っていたオベリスクはそのまま残されたが、1585年、教皇シクストゥス5世の命により、改築された大聖堂の前(サンピエトロ広場)に移され、現在もそこに立っている。
再びエジプトの外へ
19世紀に入ると、今度はエジプト政府による贈り物としてオベリスクが国外に運ばれるようになった。 アレキサンドリアにあった「クレオパトラの針」と呼ばれる2本1組のオベリスクは、ニューヨーク市と英ロンドンに1本ずつ寄贈された。また、前述のようにルクソール神殿のオベリスクのうち1本はフランスに贈られ、パリのコンコルド広場に設置されている。 また、現代の技術と資材を使って、新たなオベリスクも建造されている。米国の首都にあるワシントン記念塔は、古代エジプトのファラオが建てたものと比べて5倍の高さがある。オベリスクが今も世界中で親しまれている様子からは、その魅力が依然として衰えないことや、古代エジプトの影響が数千年の時を超えて広がっていることがわかる。
文=Barbara Faenza/訳=荒井ハンナ