21世紀の「尊皇攘夷」は可能か 日本ナショナリズムと文明転換
パリオリンピックの直前、五輪開催に反対する現地の複数の市民団体関係者が抗議集会を開きました。選手村建設に関連して、外国人労働者向けの住宅が取り壊され、転居を余儀なくされる人が大勢出たことなどが背景にあるようです。 建築家で、文化論に関する多数の著書で知られる名古屋工業大学名誉教授・若山滋氏は「今の世界では、平和の祭典の一方で、民族主義的ナショナリズムの嵐が吹き荒れている」といい、「日本だけが例外でありうるだろうか」と問います。若山氏が独自の視点で語ります。
平和の祭典と極右の伸長
パリオリンピックを観ていて気づいたのは、国家と民族の関係の複雑化である。 国家とは基本的に国民の特性(民族や言語)をもとに形成されるもので、ネイションステイトといわれる近代国家はその傾向が強い。しかしその実態は、植民地主義の歴史と深く関わっていて多様である。グローバリズムが進む今日、特に西側先進国において、国家と民族の関係は複雑化している。 とはいえ、その西側先進国が安定的にグローバル化しているのかというと、決してそうではない。西側各国では、移民難民の排斥を旨とする、いわゆる極右団体が力を伸ばしつつあるのだ。このオリンピックの厳戒態勢にはフランスだけでなくヨーロッパ各国の治安当局が参加していたというが、事実ヨーロッパでは、オリンピックと並行して、いくつかのテロや暴動が起きている。 今の世界では、平和の祭典の一方で、民族主義的ナショナリズムの嵐が吹き荒れているのだ。日本だけが例外でありうるだろうか。実は日本にも、幕末の「尊皇攘夷」思想に端を発する強いナショナリズムが存在する。戦後の民主主義、国際主義によって押さえつけられてはいるが、この思想傾向が日本人の心から消え去ったわけではない。 今回はこの「尊皇攘夷」について、過去を振り返りながらその現在と未来について考える。危険な匂いもするが、ここではあえて肯定的にとらえてみたい。世界中で極右団体が伸長し自国主義が蔓延する現在、この思想傾向に目をつぶることは、戦争に目をつぶるのと同様に、かえって現実から遊離した脆弱な平和主義になってしまう恐れがあるからだ。