21世紀の「尊皇攘夷」は可能か 日本ナショナリズムと文明転換
「普遍的人道」と「集団求心力」
「オリンピックは参加することに意義がある」という言葉は、なるほどそのとおりだと思いつつも、人は自国の選手が勝つことに熱狂する。人間の心の中には、世界のすべての人々の平和と幸福を願う普遍的な人道主義の力と、それぞれの集団(国家、民族、企業、家族など)の繁栄を願う集団求心力とが拮抗しているものである。 特に国家の求心力を強める思想をナショナリズムと呼ぶのだが、それは人間の自然な属性であり、それ自体は悪いものではない。世界各国にナショナリズムが存在し、それぞれの歴史的な特徴がある。ヨーロッパのそれは、キリスト教に対するユダヤ教やイスラム教という宗教問題を根底として、植民地の歴史を背景にした移民難民の問題が絡んでいる。アメリカはもともとの国家が内包する人種差別の問題があり、国際介入主義とモンロー主義(孤立主義)が葛藤している。またイスラム圏はイスラム原理主義、中国は中華思想という自己中心思想を抱えている。一般に、国家がその現状を根底から変えようとする時にはナショナリズムが燃え上がるものでもある。 現在の日本は、あまり思想的な主義主張のない国ととらえられがちだが、実は日本社会の根底に「尊皇攘夷」という強いナショナリズムの思想が存在する。黒船の脅威にさらされた江戸末期には、この思想が燎原の火のごとく燃え上がって、結局はそれが近代国家の成立に結びついたのだ。 「尊皇攘夷」。今ではカビの生えたような言葉であるが、実は現在も命脈を保っていて、日本国民の精神的な中核となっているのではないか。もっといえばこの「尊皇攘夷」こそ、日本人の集団求心力としての文化的本質であり、日本人が自ら思索し激しく実践した唯一の思想ではないか。危険思想として無視するより、これを21世紀に活きるものとして解釈しなおすことはできないだろうか。
尊皇攘夷という炎
僕は、大佛次郎の『鞍馬天狗』から司馬遼太郎の『竜馬がゆく』まで、幕末の勤王の志士に、なんとなくヒーローというイメージを抱いている。もちろん血生臭いテロもあり、強引と思われる討幕戦争もあり、維新前後の権力闘争もあったのだが、結局は彼らによって、封建社会から近代社会へと夜が明けたのだ。僕らの世代の多くはそう考えているのではないか。 幕末に日本の沿岸を脅かした黒船とは、沿岸都市を壊滅させるだけの艦載砲をそなえ、蒸気力という新しい力で動き、アジアの国々を植民地化する西洋文明の支配力の象徴でもあった。当時の西洋列強は、明らかに帝国主義であり、イギリスはヴィクトリア女王が君臨する大英帝国の最盛期、フランスはナポレオン3世の帝政期、アメリカは強い権限をもつ大統領制をとり、ロシアはロマノフ王朝のツアーリ(皇帝)が治め、ドイツ諸国はやがてビスマルクのプロイセンを中心とする帝国建設に向かう。 西ヨーロッパの世界進出と支配はすでに16世紀から始まっており、日本にもその空気は伝わっていた。徳川体制を維持するための「忠孝」を基本とする儒教的、家社会的、諸法度制度は、平和ではあっても息苦しい。官学としての朱子学にあきたらない何人かの学者たちは、天皇を中心とする日本ナショナリズムの思想を展開していったのである。 19世紀、黒船の出現によって、それが一挙に加熱する。 水戸学の藤田東湖、長州の兵学者吉田松陰などと、その影響を受けた西郷隆盛、桂小五郎、坂本龍馬などの下級武士たちが、天皇を中心とする集権国家によって国を守ろうとする果敢な行動思想としての「尊皇攘夷」に走るのも必然であったと思われる。幕末にはこの思想が日本列島をおおったのだ。長く続いた武家支配の封建制を打破するのだから、悲惨なテロ行為も戦争もあった。