黒海発「イギリス・海の力 vs ロシア・陸の力」が日本の近代史に及ぼした影響とは?
ロシアによるウクライナへの軍事侵攻から2年以上が経過しました。両国はいずれも黒海の沿岸国であり、黒海地域の戦略的重要性があらためて注目されています。 建築家で、文化論に関する多数の著書で知られる名古屋工業大学名誉教授・若山滋氏は「19世紀初頭にはじまる、黒海におけるイギリスとロシアの対立の影響が、遠く離れた日本の近現代史にまで及んでいる」と指摘します。若山氏が独自の視点で語ります。
旧満州の建築
30年ほども前か、ハルビン出身の中国人留学生に案内されて、中国東北地方(旧満州)を旅したことがある。 建築の様式に中国の匂いがしない。むしろかつてこの地域を支配したロシアと日本の影響が残る。万里の長城の内(南)と外(北)では風土も文化もくっきりと分かれているのだ。北方の遊牧民の侵入を遮るためにつくった長城は、逆に中国文化が広がることも遮ったのだろう。 ハルビンの街はまったくといっていいほどロシア風であった。中央広場にはイスラム建築にも似たタマネギ頭をもつロシア正教様式の聖ソフィア大聖堂が威容を誇り、繁華街にはロシア支配当時に欧州で流行したアールヌーボー様式がけっこう残っている。そう考えてみれば、この地域において、日露戦争から満州事変までの日本の政府と軍が意識したのは、ロシア(ソビエト)という北からの「陸の力」の南進であったに違いない。 前回、黒海をめぐる諸帝国と遊牧民の葛藤の歴史を論じ「イギリスあるいはアングロサクソン国家 vs ロシア」の地政的な力学に筆が及んだが、今回は、その力学と日本の明治維新、日露戦争、太平洋戦争との関係について考えてみたい。
江戸の初期と末期における日本とイギリスの関係
このところ、天皇皇后両陛下のイギリス訪問とその歓迎ぶり、および最近の両国関係の親密さが報道された。 イギリスという海洋国家と日本国の関係の始まりは、江戸時代初期にさかのぼる。関ヶ原の合戦のあと、徳川家康はイギリス人航海士ウイリアム・アダムズ(三浦按針)をつうじてイギリスとの交易を推進しようとしていた。二人の信頼関係は厚く、織田信長とルイス・フロイスの関係を思わせる。 16世紀をつうじて、世界の海の覇権は、スペイン、ポルトガルという宗教を主眼とする力から、イギリス、オランダという交易を主眼とする力へと、急速な転換を遂げていた。その時期が、日本の天下人が信長から家康に転換することと重なっている。しかし家康の交易推進方針にもかかわらず、その死後に徳川政府は鎖国の方針をとり、ヨーロッパの交易相手に選んだのは、より宗教色の薄いオランダであった。 このころのヨーロッパの船は3本マストの帆船であった。ところが幕末に、列島の沿岸を騒がせたのはイギリスを元祖とする蒸気船である。江戸湾沖に現れて幕府を震え上がらせたのは、東の新興国アメリカのペリーで、そしてもう一つ、北の新興国ロシアが日本の海を脅かしていた。 数世紀にわたって海の王者を誇った大英帝国海軍は、アメリカやロシアなど新興の帝国に負けじと、当然のように日本に迫る。攘夷を主張する薩長とのあいだで、下関戦争(馬関戦争・対長州)、薩英戦争などがあったが、これによって薩長は英国の実力を知り、また英国も薩長のあなどりがたいことを知った。英国は薩長の討幕を支援し、両藩の志士たちの心は攘夷から開化へと動いていく。思い込みによって膨れ上がったエネルギーが、比較的小さな事件によって方向転換するのは、歴史上よくあることで、一国の運命はこういうときの現実対応力で決まるようだ。