21世紀の「尊皇攘夷」は可能か 日本ナショナリズムと文明転換
文明転換の思想
明治新政府が成立すると、一挙に西洋文明をとり入れることとなる。「文明開化」だ。 この「尊皇攘夷から文明開化への転換」という一見不可解な現象こそ、実は、思想のない国といわれがちな日本の思想的本質ではないか。尊皇攘夷とは単なる偏狭な民族主義ではなかったのである。それは、時代に合わなくなった旧い体制を打ち破り、新しい文明の社会を切り開く「文明転換思想」だったのではないか。維新によって、西洋文明は追いかけるべきものとなり、西洋の知識人は「お雇い外国人」という教師となった。「脱亜入欧」とはよくいったものだ。 いうまでもなく攘夷の「夷」とは、古代中国の世界観からくる、化外の地(文明の外側)にある粗暴な連中をさす。征夷大将軍とは、大和朝廷が体現しようとする文明に刃向かう者を征する指揮官の意味である。また大化改新でも、明治維新でも、天皇は常に外来文明の体現者として国民の前に立ち現れている。つまり攘夷もまた尊皇も、新しい文明に向かう思想なのだ。 そう考えていけば、この国で西洋化と近代化がアジアでは例外のごとく進んだのも、その根底に尊皇攘夷思想があったからこそではないか。しかし日本社会全体が完全に西洋化し近代化したわけではない。維新以後も、日本の津々浦々には封建時代の遺制が色濃く残っていた。 また、文明に立ち遅れた国を蹂躙する植民地主義によって近代化を遂げた西洋のあとを追うだけの「無批判な西洋追随主義」、その表層だけをまねる「浮かれた西洋かぶれ」、そういったものに対する反感も強かった。維新のあと、西洋文明を野蛮と批判し、西南戦争で賊軍の頭目として死なざるをえなかった西郷に共感する頭山満の玄洋社が右翼思想の源流を形成する。幕末の「勤王の志士」たちの過激性は、維新後に「民権の壮士」たちの過激性に転じる。 国家という集団の求心力には、体制と反体制の力が拮抗している。歴史は時に、その時代の反体制エネルギーに、特に若者たちのそれに火をつける。燃え広がった炎は山火事に似て、右から左に、左から右に、どちらの方向に進むか分からないものだ。人力で(政府が)消火するのは難しいが、体制転換につながる場合もあれば、いつのまにか落ち着いてしまう場合もある。