21世紀の「尊皇攘夷」は可能か 日本ナショナリズムと文明転換
昭和ファシズムは尊皇攘夷か
満州事変を契機として、日本の軍部は大陸への進出を加速し、国内では青年将校らによるテロリズムが横行する。一見、幕末の尊皇攘夷が昭和ファシズムとして復活したように見えるが本当にそうだろうか。 5・15事件や2・26事件に決起した青年将校たちの主張には、資本主義の矛盾に対する怨念が強調されている。彼らに影響を与えた北一輝の「純正社会主義」には、資本主義を超克するという意味で左翼革命に似た論理が説かれている。東亜共栄、王道楽土といったプロパガンダ的標語は、欧米の帝国主義に対するアジア・ユートピア的な平等思想である。たしかに果敢な行動精神としての尊皇攘夷のエネルギーは受けつがれているのだが、先に述べた「反体制の山火事」で、思想の方向性はだいぶ揺れ動いているのだ。 また僕は、あの戦争の最大の問題点は、総合的な戦略と時勢の変化に応じて機敏に舵を切る指導者の不在と、その動向を支持し補完する層の薄さにあったと考えている。それは世界の文化文明を深く理解する知識人層の薄さ、内外の力関係を冷静に分析する政治指導層の薄さでもある。あの戦略なき無謀な総力戦の原因は、軍部の独断専行だけでなく、むしろ同調志向の強い国民を誘導するべき知識人とマスコミの脆弱さにあったのではないか。大正昭和の西洋借りものの進歩主義知識人は、幕末明治の白刃の下を東洋から西洋へと潜り抜けた思想家行動家に及ばなかった。 尊皇攘夷は、変革の思想であり、文明の思想であり、ナショナリズムではあってもファシズムではない、というのが僕の考えである。
近代文明を方向転換する「新尊皇攘夷」論
太平洋戦争後、日本を支配したアメリカの戦略は、日本の民主化を進めながらも尊皇攘夷の思想エネルギーを残し、せまりくる共産主義の脅威に対して、米軍を補完する力として利用するというものであった。左翼陣営が親ソビエトだったことの反力でもあるが、日本は、少し前まで鬼畜米英といっていたのが一転して、不思議なほどの親米国家となった。今はその米軍を補完する力が中国に向けられようとしている。 しかし本来の尊皇攘夷とは、戦争に向かうのではなく、新しい文明に向かうイデオロギーなのだ。 温暖化による異常気象はまったなしである。近代文明は「脱炭素」に向かって大転換される必要がある。またこれまでの欧米的普遍性は「グローバルサウス」を含めた地球的普遍性に大転換される必要がある。今、世界は新しい文明の思想を求めているのだ。そこに、文明転換思想としての尊皇攘夷論が浮かび上がる。 日本の天皇家は他国の王室とは違って、武力の頂点であったことはほとんどなく、ほぼ一貫して平和と豊穣を祈る文化的求心力の象徴であった。また現在の皇室は強く世界の平和を希求している。そういったことを総合して、21世紀の「新尊皇攘夷」を定義するなら「国民の平和と生活と文化を守り近代文明を方向転換する果敢な行動精神」というべきだろう。日本ナショナリズムが生きる道はこの方向しかない。