ウクライナ戦争で浮かび上がる「黒海」 遊牧民と帝国が交錯する歴史と日本
ロシアによるウクライナへの軍事侵攻から2年以上が経過しました。両国はいずれも黒海の沿岸国であり、黒海地域の戦略的重要性があらためて注目されています。 建築家で、文化論に関する多数の著書で知られる名古屋工業大学名誉教授・若山滋氏は、黒海と日本の歴史にも関連性がある、と指摘します。若山氏が独自の視点で語ります。
ボスポラス海峡
もう20年ほど前のこと、イスタンブールのボスポラス海峡を船でわたった。デッキに出て、ヨーロッパからアジアへと転換する周囲の風景を眺めながら、二つのことを思った。 一つは、15世紀、オスマン帝国のメフメト2世がビザンティン帝国のコンスタンティノープル(現在のイスタンブール)を陥落させるときに、ボスポラス海峡側から船団を陸上輸送して金角湾側から攻めたという奇策というべき戦術の話である。もう一つは、藤原新也の『全東洋街道』(集英社1982刊)の出発地がこの海峡で、船の内部の空気がヨーロッパからアジアへ変化すると書いていたことだ。臨場感あふれる写真と緊張感にみちた文章の、素晴らしい紀行文学であった。今の若い人にぜひ読んでもらいたい。冒険の旅は、学校以上に人をつくる。 しかし僕は、その日のうちにヨーロッパ側のホテルに戻る予定だったから、そのまま混沌のアジアを駆け抜けようとする藤原のような緊張感はなかった。とはいえ、独りでアジア側のウスクダラに入り、迷路のような古い街区に迷い込むと、よそ者に対する刺すような視線を浴びて、観光化されたヨーロッパ側にはない、未知への好奇と恐怖を感じたものだ。 そしてその山地の先には「黒海」という、われわれにとってはあまり馴染みのない海がある。今、クリミア半島が突き出したこの海は、ウクライナ戦争によって、突然のように日本人の眼前にクローズアップされてきた。ここではこの海をめぐる遊牧民と帝国が交錯する歴史をかえりみることによって、現在の西側(特に英米)とロシアの対立、及び日本とも関連する、地勢と地政の力学を考えてみたい。ヨーロッパの東端かつアジアの西端に位置する黒い海は、ヨーロッパの西端ともいうべき英米と、アジアの東端たる日本の歴史とどうかかわっているのか。