登校しぶりの長男と脳性まひの二男のケアのため、夫婦ともに仕事を辞めることに。向き合い続けた「仕事と育児の両立」のむずかしさ【体験談】
退院後、24時間のケアと入退院を繰り返す日々
当時、育児休業中だった晃子さん。24時間態勢で医療的ケアを行う日々が始まります。 「退院してからは、医療的ケアをすることに慣れていなかったため、自宅でのケアに苦労しました。とくにたいへんだったのは、食事ですね。康介の体がまだ小さかったため、最初は1日に6回に分けてごはんをあげていました。最後の6回目が深夜1時で、食べている途中で吐くことが心配だったので、様子を見ながら慎重に進めていたため、私が寝るのはいつも午前2時過ぎになってしまって。寝ている間も康介のことが気になってしまい、しっかり睡眠を取ることができず、つねに睡眠不足の状態でした。その時期は、体力的にも精神的にももっともつらい時期だったと思います。 それから康介が5歳になるころまで、体調を崩すことがとても多く、とくに夜中に具合が悪くなることがほとんどでした。そのため、夫と2人で深夜に病院に連れて行く日々が続いて…。そういうときは、祖父母に家に来てもらい、兄の春人の面倒を見てもらいました。私たちは朝まで病院でつき添い、そのまま家に戻れないことも頻繁にあり、さらに入退院を繰り返す生活が続いていました」(晃子さん) 晃子さんは3年間の育児休業後に復職することを希望していましたが、康介くんを預けられる保育園が見つからずに退職を決断したそうです。
長男が登校をしぶるように…。晋也さんも退職を決断
そんな中、突然長男の春人くんが登校に強い抵抗を示すようになりました。 「春人は小学1年生の10月ごろから登校をしぶるようになりました。最初はバスで通学していましたが、次第に送ってほしいと言うようになり、最終的には登校時刻になると体が動かなくなりました。 具体的な原因は不明ですが、小学校に入ることによる生活の変化や学校行事の増加、家庭環境の影響が重なり、不安が大きくなったのだと思います。私たちが弟の病院につきっきりで、帰りが遅くなる日も多かったため、家庭でも不安な日々を過ごしていたのでしょう。 春人は『お母さんと一緒なら学校に行ける』と言うので、私が毎日学校につき添いました。1年3カ月のあいだ、なんとか不登校にはならず、1日数時間、学校の相談室にも通っていました」(晃子さん) そのため晃子さんが春人くんと学校に行っている間、晋也さんが康介くんのケアをすることに。晋也さんにも当時のお話をお聞きしました。 「私はそのとき教員として働いていました。長男の登校しぶりが始まった当初は、仕事を休んで私が康介の育児をしていましたが、だんだんと仕事にも影響が出てきて、あせりが大きかったです。なんとか仕事に穴を開けたくない…長男にも学校に行ってもらいたいと思っていましたが、それでもなかなか見通しが立たなかったので、1年間休職し、2024年3月に退職しました。 休職している間は給料をもらっているわけではないので、今後の自分の身の振り方をいろいろ考えました。転職先や家庭教師などオンラインでできる仕事を探してみたこともあったのですが、息子のケアで休んだり途中で抜けたりすることを考えると、どれもむずかしいなと…。さまざまな方に相談し、最終的に自分でフリースクールをつくろうという決断にいたりました」(晋也さん)
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