新型コロナで露呈した各国の「権力」と「民力」、そして「質の国力」
「質の国力」と「デュアル・モード国家」
「権力」+「民力」=「質の国力」という考えは成り立たないだろうか。 一人の人間にも、経済力や地位や名誉といったものでは計れない人間力というものがある。国家にも、軍事力や経済力といった「規模の国力」とは異なる「質の国力」というものがあるだろう。 今回の教訓として、いわゆる先進国、いわゆる大国が、意外にもろいことが浮かび上がった。逆に、あまり目立たない小さい国が強かった。日本は、明治期には文明先進国を、昭和初期には軍事大国を、戦後は経済大国を目指し、つまり「規模の国力」ばかりを追いかけてきたのだ。今この国は、そういった幻想を捨てて「質の国力」から考え直すべきときにある。 また各国の対応と結果を比較して、平常時には自由と人権を重視する体制の方がいいが、多くの国民の命にかかわるような疫病や災害など(これに国際紛争を含めるのはファシズムとなって微妙である)に直面した非常時には強い権力が必要だ、という論理が成り立つように思える。 つまり理想の国家システムは、デュアル・モードだということになる。「デュアル・モード・ビークル」というのは、道路上を自由に走る場合と、軌道上を連続的に走る場合と、両方可能な乗り物であるが、国家もまた、平常時は個人が自由に活動し、非常時には規律にしたがって行動するというような体制が望ましいのではないか。全盛期の英米には、また今回の台湾とニュージーランドには、そういう空気があったような気がする。 さて菅総理が、会食で多くの人たちから情報を得ていることは知られているが、そのメンバーが問題ではないか。「官邸官僚」ならぬ「会食側近」の質が、「質の国力」につながると思われる。