「40歳を過ぎたら、舞台に立たないと思っていた」――奇跡の女形、坂東玉三郎が歩む芸道一筋の70年
「逆境はあまり感じたことがないんです。血縁って何なんでしょうか」。当代随一の女形として舞台に立ち続ける、歌舞伎俳優・坂東玉三郎(71)。世襲で伝統を継ぐことの多い歌舞伎界で、梨園の出身ではない。幼少期に舞踊の世界へ導かれ、一日一日稽古を積み重ねて、今日に至る。時には心身の不調に悩まされながらも、舞台の美を追い求めてきた。芸に邁進する人生を語る。(文中敬称略/取材・文:塚原沙耶/撮影:下村一喜/Yahoo!ニュース オリジナル RED Chair編集部)
生活すべてにおよぶ「こだわり」
「自宅に蛍光灯はほとんどありません。日の光か、ろうそくの光か、ランプの光で生きていきたい。『一生暮らしていけるだけの電球を買ってきて』と言って、100ワット、80ワット、60ワットの電球を200個ずつ集めたんです。省エネのことも聞くけれど、消せばいい。衣装の色の打ち合わせは、蛍光灯やLEDではできません。色彩が分からないんです」 坂東玉三郎は歌舞伎の衣装を作る際、職人と直接会うようにしている。「作っている人の顔を見ないと、こだわりが僕の中で通らない」と話す。努力を続けられる理由を尋ねた時も、「こだわりから」と答えた。こだわりは生活全般におよぶ。 生活の断片を聞いてみると、近年の食事は、脂身のない牛肉と野菜。若い時から食事は舞台のためのガソリン補給で、「純度の高いものを作り上げるため、純粋なものを食べる」ようにしてきた。食べ過ぎたり飲み過ぎたりしたことは一度もなく、仕事の打ち上げはいつも途中でそっと抜け、飲み明かしたこともない。 71歳を迎えた現在まで、舞台に立つための自己管理を徹底してきた。物腰やわらかに「一般人です」とほほえむが、妥協を許さず美を追求してきた人の、静かな迫力をまとっている。
幼稚園を1日でやめ、踊りの稽古へ
1950年、東京・大塚で料亭の息子として生まれた。名前は、楡原(にれはら)伸一。料亭に出入りする芸者たちに囲まれて幼少時代を過ごし、物心つく頃には踊っていた。 「音楽がかかると、体が動いちゃう子どもだったんです。それで両親が、踊りのお稽古をするといいだろうと導いてくれた。そのまま好きなことをやって、今日までこられたということだと思います。『役者になりたいと思ってなったんじゃない』と言うと不遜ですけど、何かずるずると来てしまった、という感じがあるんですね」 幼児期の記憶が鮮明だという。小児麻痺を患い、体が弱かった。 「1歳半で病院に入った時の、エレベーターの音と色を覚えているんですね。薄いブルーグリーンでした。当時のエレベーターは動き始める時に『トーン』、その後に『ブー』と鳴るから、僕、エレベーターを『トーンブー』と言っていたんです。病院に入って苦しい思いをしたこと、トーンブーに乗れば外に行けることの印象が深かったんだと思います。それは1カ月半の入院でした。よちよち歩きになってから、お医者さんが家に来てくれて、白い布団の上で治療を受けたのも覚えています」