「40歳を過ぎたら、舞台に立たないと思っていた」――奇跡の女形、坂東玉三郎が歩む芸道一筋の70年
玉三郎は父親を「自分の感情の根源」だと言う。実父は「甘いだけ」、養父は「厳しいだけ」。2人の父にそれぞれのあり方で見守られた。養父と養母の他に、稽古で叱られたことは一度もないそうだ。 「養父は『自分で一点でもいいと思ったら、役者は終わりだよ』という教育でした。それはずっと忘れないでいます。『あの見栄をした時、気持ちよくやっていなかったか。おまえが気持ちよくやったのでは、お客さまにとっていいか分からない。苦しいなかから、務めなさい』と言われました。養母には『あの瞬間、役ではないところを見ていたんじゃない?』と、目線を細かく叱られました。確かにその時、うつつの感情があったと思います」
10代後半から大役に抜擢され、類いまれな美しさで三島由紀夫や澁澤龍彦からも見いだされる。19歳の時に芸術選奨新人賞を受賞。チケットを取るのが困難なほど注目を集め、「玉三郎ブーム」が巻き起こる。そして人気は定着し、アメリカやフランスなどで公演を行うと、海外でも絶賛された。やがて女形の最高峰、立女形となる。 世襲で伝統を継ぐことの多い歌舞伎界で、玉三郎は梨園の出身ではない。しかしそれを逆境と感じたことはないと言う。 「いろいろな先輩方に引き上げていただいたので、逆境ってあまり感じたことがないんです。血縁って何なんでしょうか。血縁があれば、父から子どもに、そのまんまが渡るんでしょうか。血縁だけが家族のような気がしないんですね、僕の中では。長いこと一緒に仕事をしていて理解し合えている人も、隠しごとのない友達も、家族だと思っています。ただ、実父、実母は、自分に心を注いでくれましたから、やっぱりかけがえのない家族です」 家族をつくり、子に後を継がせたいという気持ちにはならなかった。 「それは自分が自然に生きてきたのと同じように、自然の流れの中から生まれてくるものだと思いましたので、自分から招いてもできないものだと初めから理解していました」