「40歳を過ぎたら、舞台に立たないと思っていた」――奇跡の女形、坂東玉三郎が歩む芸道一筋の70年
甘えん坊で、どこか気の強い子どもだったという玉三郎は、幼稚園を1日でやめている。 「やっぱり過保護だったんでしょうかね。家族以外の人と会うのが苦手でした。母親が付き添うというので、幼稚園に行ったんです。それは1日だけだと思っていた。そしたら2日目からは母が来ないという。『約束が違うから』と言って、やめさせてもらいました。小学校は『義務教育という法律上のことだから』と言われて、行きました。両親は僕を子ども扱いせず、子ども用の言葉を使わなかったんです。『法律上のことなら仕方がないかな』と思った。意外とませていたんでしょうか」 幼稚園には行かず、歌舞伎俳優、十四代目守田勘弥の妻である藤間勘紫恵に日本舞踊を習い始めた。4歳の頃、稽古場で初めて「お月さま」を踊った時のことを覚えている。それから守田勘弥の部屋子となり、7歳で初舞台を踏んだ。 「最初は興行が25日間もあると知らなくて。朝起きて、『今日もまた舞台に出られるの?』って母に聞くと、『今日も出られるよ』。『いつまで?』『幾日まで』。毎日出られることが信じられなくて、嬉しかったです」
血縁だけが家族ではない
子役として舞台出演を重ね、14歳で守田勘弥の芸養子となる。この時、五代目坂東玉三郎を襲名した。 「養父の守田に『今日から専門家になるんだから、今までのような甘い生活はできないよ』と宣言されました。『あ、そうか』と受け止めて、朝10時から夕方5時まで、稽古ずくめということを覚悟しました。踊り、三味線、鳴り物、お習字、義太夫の稽古をしていました」 親元を離れて暮らすことに、寂しさはなかったのだろうか。 「名前を継ぐと、ありとあらゆることがやってくるという覚悟がありました。僕、寝床を一回決めると、そこから外泊できない子どもだったんです。だから養父、養母のところに引っ越した後、ほとんど生家に帰らなかった。実父は養父のところに僕をやりたくなかったと思います。そばに置きたかったと思うんですね。ただ、実父は僕の言いなりでしたから、行くと言ったら、『ああ、そうかい』って」