本当に「風化させないで」と言えるのか――10年目の3.11を越え、女川町長が描くこれからの10年 #これから私は
宮城県JR女川駅から真っすぐ海へ向かって伸びるプロムナード。元旦にはその真正面に、初日の出が上がります。設計のアイデアを出したのは、女川町長の須田善明さん。震災後、39歳で町長に就任し、女川の町づくりを進めてきました。震災翌日、親族の遺体を前に、公人として腹を決めたという須田さん。そこから見据えたのは、10年先の未来でした。あの日から10年目を迎えた今、須田さんが描く町の姿とは。お話を伺いました。(Yahoo!ニュース Voice編集部)
「風化させないで」と言えるのか
ーー東日本大震災発生から「10年」を越えて、いかがですか。 須田善明さん: 報道の多さが意外でしたね。同時に3月12日を過ぎたら、ぱたっと止まるだろうとも思っていて。止まって当然なんです。自分たちだって被災する前、1月17日は何の日か、10月23日は何の日かって、ぱっと答えられたでしょうか。1月17日は阪神・淡路大震災、10月23日は新潟中越地震があった日です。当事者になって学んだから、今はすぐ答えられます。 でも、震災以前の自分を振り返ると「風化させないで」「忘れないで」と本当に言えるのかと、反省を込めて思います。「風化させないで」って人に委ねる行為ですよね。委ねるのではなくて、自分たちが風化させないことが、必要なんだと思います。そして「風化させないで」と言い続けてきた私たちが、今度は他の場所で起こった災害に対しても、同じ気持ちを持ち続けられるか。行動を起こせるか。それがやっぱり大事ですね。
ーー震災当時は宮城県議会議員でしたが、あの日はどちらに? 須田善明さん: 仙台での会議に出席して、女川に戻るところでした。車で三陸道を通って、いつものインターではなくて、たまたまその日は、3つ手前にある陸側のインターで降りたんですよ。なんでか分からない。今でも覚えてるけど「あ、ここで降りて」って。もしいつものインターで降りていたら…巻き込まれていたでしょうね。 走っていると携帯が急に鳴り出して。緊急地震速報です。車内のテレビを付けたら、東北地方が真っ黄色になってる。それからぐわーっと揺れ出しました。電柱がおもちゃみたいにグワングワン揺れていました。 揺れている間から、津波のことは頭にありました。それは仕事柄ではなく、ここの人たちはいつも、津波が来るのを覚悟しながら暮らしてるからなんです。 夕方に女川に入り、宮城県知事に連絡を取りました。「ヘリを飛ばせないか」とメールを送ったら、すぐ返信が来ましたね。「県の防災ヘリは2台とも鉄くずになりました」と。あんな所まで津波が来たのかと、がく然としました。克明に覚えてますね、あの日のことは。3年前、7年前のことは思い出せないけど、あの日のことだけはもう、忘れようがないです。