本当に「風化させないで」と言えるのか――10年目の3.11を越え、女川町長が描くこれからの10年 #これから私は
スピードよりも、あるべき姿を目指して
女川町の復興の特徴が「還暦以上は口を出さない」スタンスだ。若い世代中心に、町づくりを進めてきた。女川町は高い防潮堤は築かず、盛り土によって町全体を高台とする再建を行った。 ーー還暦以上は口を出さない方針はどのように決まった? 須田善明さん: 私の言葉ではないです。震災一カ月後の復興連絡協議会で、商工会長がこう仰ったんです。「復興には10年、20年かかるだろう。私は今日還暦で、その時生きているか分からない。われわれ世代がやって、良いものになるかも分からない。だから若い世代がやりなさい。還暦以上は口を出さない」と。 女川の実力者である還暦以上の方々が、それに賛同された。その場で正式に方針が決まったわけです。そして「予算が必要なら金策もするし、世間から批判されたら弾除けになる」とも言われました。先輩方が弾除けになり、至らないときには球拾いもしてくれた。そのおかげでわれわれ世代は走っていくことができたんです。 ーー町づくりにおいて重視したことは? 須田善明さん: 就任までは、スピード重視だと考えていました。その意識が変わったのは、就任直後、都市計画原案を見たときです。コンサルタントから何時間も説明を聞きましたが、その絵からはどうしても未来が描けなくて。会議後に職員を集めたんです。「ちょっと腹割って話したい」と。そこから3時間話し合いました。一人ひとりに意見を聞くと「不安です」と。でもここまでやってきたのに、ここでやめるわけにいかない。みんなそんな気持ちでした。 そして、前町長も悩んでいたことを聞きました。あの強いリーダーも不安だったんだ。それなら自分が悩むのは当然だと思いましたね。それで、吹っ切れたんです。翌日もう一度コンサルタントを呼んで、描き直しを依頼しました。 ーー積み上げてきた計画を、ひと晩でひっくり返した。 須田善明さん: 自分が「こうあるべき」と思える基軸が必要でした。リーダーは迷いを見せられないからです。自分が不安だと下も迷ってしまう。スピードより、あるべき姿を優先させました。 ーー都市計画原案を見て感じた不安とは? 須田善明さん: 町の中心部にある堀切山を境に、居住エリアが完全に分断されていたんです。震災前から、山によって学区は分かれていました。でも住宅が連なっていたため、町としての一体感はあったんです。それを真っ二つにしてしまったら、人の繋がりが途切れ、女川の気質が失われてしまう。 ーー描き直した新たな案は? 須田善明さん: 山を削り、町を一つにしました。町のコアを中心部に集め、それを全体で共有する形です。もともと震災後に「あの山を切れないか」という構想はありました。そうすれば町が繋がると。それが実現したんです。 私が就任時から目指したのは「人が減っても活力を失わない町」でした。人口が減っても、人の流れは途絶えない町をつくろうと考えたんです。そのために必要だったのが、町の「ユナイト(一体化)」でした。