終末期の患者4000人の生に寄り添う 最愛のわが子も看取った緩和ケア医、関本雅子さん 一聞百見
この30年で約4千人の患者の看取(みと)りに関わってきた。
末期の膵臓(すいぞう)がんで入院してきた60代の男性は、「これからどう過ごしたいですか?」との問いに「大好きなネパールに家族と行きたい」と答えた。妻と娘との旅行をかなえた1カ月半後、ネパールの写真に囲まれた病室で最期を迎えた。ベージュのスーツと帽子を身にまとって送られる男性を囲み、悲しみの中で撮った最後の写真に写る家族は、全員笑顔だった。
29歳の子宮がんの女性は、子宮摘出と同時に夫と話し合って離婚。再発後は耐えがたい身体の苦痛に襲われた。そんな彼女が、悲しみに暮れるであろう家族に宛て、一通の手紙を残していた。「幸福に満ちあふれた毎日でした。みなさんありがとう」
残された日々をどう生きるか。大事な人たちに何を残すか。患者一人一人の生きようをしっかりと覚えている。「たくさんの人生に寄り添える素晴らしい体験です」。だが、わが子をがんで看取ることになるとは想像もしていなかった。
母の背中を見ていた剛さんは、追うように緩和ケア医になった。消化器がんの抗がん剤治療を学び、「治療」も「緩和」もできる医師として日々邁進(まいしん)していた令和元年、肺がんが見つかった。転移は脳に10カ所。分子標的薬を使っても余命は2年との宣告を受けた。
「たくさんの患者さんを診てきただけに、息子の最期もイメージできる。予期悲嘆が強かった」。だが剛さんは、ギリギリまで仕事をしたい、患者さんと関わっていきたい、と希望した。「楽しいことをたくさん考えたい」「後ろは振り向かない」。残された時間をいかに楽しく過ごし、やりたいことを成し遂げるかに集中し、末期がん患者としての自身の経験をも踏まえながら、患者たちに向き合い続けた。
2年半が過ぎた頃、脳転移が広がり、放射線治療を受けた後に「植物状態」になった。もうお別れか、と覚悟したが、最後のチャンスで脳圧を下げる手術を受けた。意識は戻り、「話もちゃんとできるし、車いすに乗ってお花見もできたし、おいしいものも食べられた」。亡くなるまでの20日間は「宝物のような時間」だった。無理な延命治療はしないホスピスだが、日常生活を期待できるのなら末期でも手術などの選択があってもいい、と今は考えることができる。