終末期の患者4000人の生に寄り添う 最愛のわが子も看取った緩和ケア医、関本雅子さん 一聞百見
「私だったら嫌だ。自分の身体のことは自分で知り、どうするかを自分で決めたい」
最期に直面したとき、人は何を思うか。どうしたいのか。30歳ごろの経験が脳裏に焼き付いている。
近所のキリスト教会の牧師がスキルス胃がんになり、いよいよというとき、「最後の説教」が行われた。日頃はガランとしている礼拝堂がその日は超満員。大勢の人たちが集まったことに感謝しつつも、牧師は「毎回心をこめて説教をしてきました。今日も特別ではなく、普段と何ら変わりません」。はっとした。人の日々の営みは、そのままで尊いのだ。
緩和ケアの勉強会や研究会に通っていると、六甲病院(神戸市灘区)に新しく開設予定の緩和ケア病棟(ホスピス)に医長として来ないかと声がかかった。「まだまだ学ばなくてはならないことが山積みでした」。自費で海外のホスピスを見学したり、日本のホスピスの草分けである淀川キリスト教病院(大阪市東淀川区)で研修を受けたり。平成6年、全国で16番目となる緩和ケア病棟の医長に就任した。
当時はまだ、「緩和ケア」や「ホスピス」という言葉には「もう最期なんだな」などとネガティブなイメージが強くあった。人生の完成期の患者に寄り添う医療の重要性が広く浸透するのは、もう少し後のことだ。
■長男の遺志を胸に
六甲病院の緩和ケア病棟(ホスピス)の医長として患者とふれ合う中、在宅ケアの重要性を考えるようになっていく。
体調がかなり悪い状態でも「自宅に帰りたい」と希望する入院患者は多い。「自宅へ伺うと、病室では見えなかった生活が見えるんです」。病気そのものを治療する医療機関と、緩和ケア病棟、在宅ケア。この中から患者が受けたい医療を自分で選択できるのが理想だ。
在宅ケアのクリニックは当時、周辺にほとんどなかった。「その人らしさ」を支えたい。在宅希望者の受け皿を自分で作ればいいのではないか。そう考え、平成13年、自宅を建て替えて在宅ホスピスの「関本クリニック」を開院。その後、同じく緩和ケア医の長男、剛さんに院長を引き継いだ。