終末期の患者4000人の生に寄り添う 最愛のわが子も看取った緩和ケア医、関本雅子さん 一聞百見
「ホスピスって何?」。社会的認知度がまだ高いとはいえなかった30年前、末期がん患者らの残された時間と対峙(たいじ)し、その人らしい生き方をサポートする緩和ケア医としての道を歩み始めた。「明日はもうこの世にいないかもしれない患者さんやご家族とお話ししていると、一人一人の人生がどんなにかけがえのない、素晴らしいものなのかを教えていただけるのです」。これまで看取(みと)りに関わった患者数は4千人。同じく緩和ケア医だった長男をがんで亡くした当事者家族としての体験もある。 【写真】令和4年に亡くなった長男の剛さんと写真に収まる雅子さん ■「父の死」に向き合って 神戸市灘区の閑静な住宅街の一角にあるクリニック。そこは生まれ育った実家があった場所でもある。両親と母方の祖父母に囲まれ、愛情たっぷりに育ったが、小児ぜんそくがひどく、虚弱体質だった。 幼稚園にはほとんど行けず、小学校では運動会にも出られなかった。「元気な子がヒーロー・ヒロインになる時代、劣等感も少しありましたね。おとなしく、内気な性格でした」。ぜんそくが苦しくて寝られないことも、呼吸が止まるようなこともあった。今思えば、この体験が医師という道を選ぶ動機のベースにあったのかもしれない。 一人娘だったが、「自立して生きていくには何か国家資格を取った方がいい」と親に勧められ、医学部を志した。ネパールをはじめアジア諸国で医療活動に従事した医師、岩村昇さんの講演を聴き、「素晴らしいな。こんな仕事をしてみたいな」と感銘を受けた。「でもね、成績はそんなに良くなかったんです。合格するなんて高校の担任の先生も思っていなかったみたい」と笑う。 自身の持病に加え、流産や死産を繰り返した母親の体験などもあって小児麻酔に興味を持ち、専門科は麻酔科を選んだ。身体の痛みに対応するペインクリニックの医師として神戸労災病院に勤務。腰痛症など慢性疾患の痛みを抱えた患者のほか、がん患者の相談にも乗るようになった。 「その頃は、ただ身体の痛みを取るということに専念していました。心のケアや呼吸苦など生活の質の維持には、正直どう対応していいか分からなかった」。末期がんなど完治する見込みが少ない病気にかかった患者に対して、無理な延命治療ではなく心身のケアをし、最期までその人らしい人生を送ることを目指すホスピス。1967(昭和42)年、イギリスで誕生したとされるが、当時、日本にはまだ浸透していなかった。