「個室の大衆」から「モバイル個室」へ 街に溶け出す個室、ネットに溶け出す自我
個室が街に溶け出している
しかし最近、日本人は「個室ばなれ」が進んでいるように思える。 僕は若いころから喫茶店で仕事をする癖があった。もちろん家が狭かったからだが、ひとつの場所にしばりつけられるのがきらいなノマド的人間で、街を歩きながら考え、喫茶店で手帳に文章をメモし、建築のエスキースをして、あとで原稿用紙や図面に清書する。つまり街が仕事場であった。また大学の教員になっても、個室より、学生と一緒の大部屋を好んだ。 今、若い人たちが、カフェで仕事をしているのをよく見かけるので、同類が増えたような気がする。もちろんノートパソコンやタブレットが普及したこともあるが、人々が、小さな個室にいるより、たとえ他人がそばにいても、コーヒーなどのサービスがあり、広々とした空間を好むようになっているからだろう。 海外の(先進国にかぎらず)中産階級の家を訪れると、マンションであっても日本の平均的なものの2倍近い面積があることに気づくのだが、今でも、都会の日本人は経済力のわりに小さな住宅に住んでいる。街を家とする傾向はそのためでもあろう。また建築家の作品も、最近は多くの個室をとることより、広いワンルームを志向し、子どもの学習や大人の事務にはロフトやコーナーを利用する、つまり家が街のようになる傾向にある。日本人は本来、堅固な壁に囲まれた個室が苦手なのかもしれない。 そして情報端末はウエアラブル(身につけられる)に向かい、メタバースのアバターも登場し、会話型AIが人の相手をする時代である。情報技術によって、個室が街に「溶け出す」ような現象が起きているのだ。 日本の歴史において、近代的(西欧的)な自我の確立と、家における個室の成立は、平行現象であるように思われた。そうであるなら、今、個室が街に溶け出すとともに、個人の自我がネット空間に溶け出しているのかもしれない。 「モバイル個室」が「モバイル自我」を生んでいるのかもしれない。