「個室の大衆」から「モバイル個室」へ 街に溶け出す個室、ネットに溶け出す自我
個室のモバイル化
これまで「個室の大衆」という言葉で、ネット社会における個人的発信の、主として政治的傾向を論じてきた。テレビの前に家族が集うのを「茶の間の大衆」とし、老若男女に受け入れられる「タテマエ」の意見が支配する傾向があるのに対して、個室におけるしかも匿名の発信に、悪意を含む大衆的「ホンネ」が露呈する傾向にあるという論理である。 もちろん、この「個室の大衆」は、有名なデイヴィッド・リースマンの『孤独な群衆』(原題は 『The Lonely Crowd』で1950年刊)を下敷きにした言葉である。まだテレビが普及する前のリースマンの指摘は、多産多死における人口が安定した社会では人々の性格が「伝統指向」であり、近代的な衛生と医学の発展によって多産少死となった人口急増社会では「内部指向」となり、さらに少産少死の人口安定社会では「他人指向」になるというものだが、テレビ社会の「タテマエ」も、ネット社会の「ホンネ」も、この「他人指向」の延長ととらえられる。 また僕は建築の専門家として、リースマンのいう「人口」を「居住空間」におきかえて、村落居住=伝統指向、個室居住=内部指向、大都市居住=他人指向という図式を考えていた。 近代以前の村落に暮らしていた社会では、人々は風俗、習慣、村の掟といった伝統に準拠していた。近代化によって個室が一般化する社会では、人々は個人の内部に自律的に生じる意志によって行動する。さらに交通機関とメディアの発達した現代の大都市においては、人々の性格が周囲の他者に引っ張られる傾向にある、ということだ。それは、活字以前の時代から、活字メディアの時代、映像メディアとインターネットの時代という、メディアの変化とも対応すると思える。 ここで僕は「大衆」という言葉を、知識人あるいはその他の理由によるエリート層と別の集団ととらえているわけではない。知識人にもその他のエリートにも大衆的部分があるのだが、それぞれの立場によって、その大衆的部分が抑制されているのである。 そして今は、スマホとイヤホンによって、街の中の人々が、あたかも個室にいるような感覚で動きまわっている。すなわち個室のモバイル化が起きているのだ。情報技術の変化は激しい。