追悼…赤ヘル黄金期築いた古葉竹識氏の鉄拳制裁と優しい人情…全員が名将を囲んで泣いた山陰への“勇退”バス旅行
プロ野球の元広島監督として赤ヘル黄金期を築いた“名将“古葉竹識氏が亡くなられた。85歳だった。古葉氏は、熊本の進学校である済々黌から専修大、日鉄二瀬を経て1958年に広島に入団。俊足巧打の内野手として活躍後、南海のコーチを皮切りに指導者生活に入った。1975年のシーズン途中に広島の監督に就任すると同年、球団史上初のリーグ優勝を果たし、1985年に引退するまで、山本浩二氏、衣笠祥雄氏、高橋慶彦氏らを率いて、リーグ優勝4度、日本一3度を手にするなど弱小球団を常勝軍団に作りかえた。1987年から横浜(現DeNA)の監督を務めたのちプロ野球界からは身を引いたが、野球への情熱は冷めず 、2008年からは東京国際大学野球部の監督として後進の育成に尽力した。1999年には野球殿堂入りしている。
座右の銘は「耐えて勝つ」
あの山陰の夜…全員が泣いた。 1985年の晩秋。11年の監督生活を勇退した古葉氏を慰労するため報道陣で寄付を募ってバスを一台借り切って島根に一泊二日のゴルフ旅行へ出かけた。古葉さんの人柄を示すように希望者が殺到。何人も断らねばならないことになったが、補助席まで使い、45人ほどでギューギュー詰めとなった満員のバスは約3時間かけて大社に着いた。 さっそく宴会。古葉氏は、ほとんど酒は飲まない。それでも乾杯のビールだけに口をつけて各社の一発芸大会が始まった。 某スポーツ新聞のK記者は「古葉監督物語」の寸劇をやった。K記者が古葉監督役で某アナウンサーが高橋慶彦役。K記者は、高橋役のアナウンサーをボカンと蹴り上げた。宴会場は大爆笑に包まれた。 番記者のほとんどが知っていた古葉監督の鉄拳制裁。ベンチのバットケースの裏に隠れるようにして、腕を組んで、試合を見る静かな指揮官のイメージが強いかもしれないが、肥後もっこすである。熱血漢であり厳しかった。キャンプ地である日南の天福球場、そして広島市民球場のベンチ裏で、古葉監督は、やってはならないミスをした選手を容赦なく殴った。 采配も勝負に徹していた。「江夏の21球」で有名になった話だが、1979年の広島ー近鉄の日本シリーズ第7戦。1点のリードで迎えた9回に絶対的“守護神”江夏豊氏が、無死満塁のピンチを迎えると古葉監督はブルペンで先発の北別府学氏にウォーミングアップを命じ、池谷公二郎氏にも準備を始めさせた。怒った江夏を一塁手の衣笠が慰め、大ピンチでスクイズを外すなど語り継がれる連続三振で切り抜けたのだが、それは、古葉氏の非情采配を示すエピソードとなった。両者はしばらく口を利かなかったが、翌年の開幕前に古葉氏が事情を説明して2人の絆は深まった。 その年のレギュラシーズンには、あと22試合で三宅秀史氏が持つ連続フルイニング出場の日本記録に並ぶところだった“鉄人”衣笠氏をスタメンから外した。打率1割台。岡山での中日戦だった。古葉氏はホテルの自室に呼び出して話をし、まだ納得できない衣笠氏を試合前にまた応接室に呼び「勝つために我慢してくれ」と説得した。 「耐えて勝つ」 それが座右の銘だった。 古葉氏は勝負の鬼であり人情家でもあった。