「昭和な大衆酒場」はなぜ時代を超えて愛されるのか--酒場詩人・吉田類が語る歴史 #昭和98年
“大衆食堂”から“大衆酒場”の時代へ
「なんでも知りたがる性分」だという吉田。大衆酒場の歴史を調べるようになったのは、下町文化のエッセーを執筆するため東京・江東区の門前仲町エリアに移り住んだことがきっかけだ。 「“大衆食堂”は戦前から多かったけど、酒場が“大衆”という言葉を前面に打ち出すことはなかった。戦争が間近に迫る時代ということもあり、お酒を飲んで浮かれるという雰囲気ではなかったのでしょう」 歴史ある大衆酒場の起源のひとつに屋台がある。 「戦後は物資が乏しく、人々は大きな駅の周辺に立つ闇市で食べ物を手に入れていました。買い出しに来た人もおなかが減る。そういうニーズを受けて、軽い食事やお酒を出す屋台が出現します」 増え続けた屋台は昭和24(1949)年、GHQの露店撤廃令により廃止される。 「屋台は昭和26(1951)年ごろまでに、ハーモニカのような形をした長屋の店舗へと変わっていきます。今もその歴史を感じさせるのが新宿の『ゴールデン街』や渋谷の『のんべい横丁』。そういった飲み屋街がやがて繁華街へと成長していったわけです」 大衆酒場の屋号に「ちゃん」をよく目にするのは、屋台から店舗になった大衆酒場が多かったからなのだとか。 「戦後の屋台は空腹を満たすことに精いっぱい。お店という意識すら薄く、看板もなければ屋号も名乗っていない。そこで客が店主に話しかけるとき、店主の名がもしも『吉田類』なら『ルイちゃん』って声をかけますよね。その呼び名で他の屋台と区別していたようです」 そして屋台から店舗へ変わるとき、屋号が必要になったため、呼ばれ慣れていた「○○ちゃん」がそのまま屋号になったことが多かったのだという。 「終戦直後の屋台の質は玉石混交。だから令和の今でも頑張っている『ちゃん』がつく大衆酒場は、優秀な屋台の末裔と言えるわけです。屋台から実店舗へと変わったお店は、軒に赤提灯を下げ、裸電球を店内に灯した。そのたたずまいが昭和酒場を体現する風情として受け継がれ、現代人にも郷愁を誘う大衆酒場らしさを醸成しています」