G7は本当に先進国の集まりか? アフターコロナの世界における「キャッチアップする経済」と「埋まらない文化の溝」
強権化する世界
第二次世界大戦は、民族主義的なファシズムの側に対して、自由主義と民主主義の側が勝利したとされた。ベルリンの壁の崩壊は、社会主義という思想の強制と統制経済に対して、自由と民主と市場経済の側が勝利したとされた。 しかしその後の世界における市場の混乱と、宗教原理主義のテロリズムと、中国の軍事力と経済力の拡大を経て、世界は再び、国家主義、強権主義の時代に向かいはじめた。国連事務次長を務めた高須幸雄氏によれば、この数十年、世界には強権的な政府の国家が増え、民主主義は後退しているという。しかも今はアメリカやヨーロッパのようないわゆる先進国にもその傾向が広がっているのだ。 もともとG7のメンバーをよく見れば、その多くは、かつて帝国主義的な侵略を行ってきた「列強」である。「先進」とはそういうものであり、あえていえば、自由も民主も、自国だけの論理であって、他国の犠牲の上に成り立っていたともいえる。 そう考えれば、まず「先進」という前提を外して、この「変わりにくい社会体制」と「埋まらない文化の溝」という現実を認識すべきであるかもしれない。建築様式から文化の違いを考えてきた人間としては、その背後にある、風土的な、歴史的な条件を考察してみたい。
海の風土・陸の風土、そして歴史的連続性
こういった国々の風土的な条件として「海洋国」と「内陸国」の違いというものが浮かび上がる。 西欧、アメリカ、日本などは、主として海を介して他の世界とつながっている、いわば海洋国であり、東欧、ロシア、中東、中国などは、主として陸続きの、いわば内陸国である。海洋国は国境線が明確で、他の世界との交易がお互いの利益になる場合にのみ国交を活発化することが可能で、しかも海という障害を乗り越えて航海するために、気象、天文、力学などの、世界共通の科学技術を必要とする。これに対して内陸国は、国境線が力関係によって動く可能性があり、その安定のために国家は国民の紐帯を強化する必要があって、宗教、思想、民族といった枠組みが厳格化される傾向にある。そして、植生や農業適性や埋蔵資源など大地の特性によってそれぞれの文化の性格が大きく左右される。 一言でいえば、内陸国は「統制的」になりやすく、海洋国は「交換的」になりやすい。ここで「統制的」と「交換的」という言葉を使ったのは、抽象化された表現でピンとこないかもしれないが、経済的には計画経済(統制)と市場経済(価値交換)、政治的には集権的(統制)と議会的(意見交換)、文化的には超越主義(宗教と思想による統制)と人間主義(現実と理念の交換)というような意味である。 とはいえこれは傾向であって、絶対的なものではない。日本にも統制的な時代があり、中国にも交換的な部分がある。 またそこに歴史的な視点を加える必要があるかもしれない。 古代ギリシャに、ある種の民主政(オストラキスモスに見るように)が成立し、古代ローマでは元老院というある種の議会が力をもっていたことはよく知られている。この古代地中海から、近世近代の西欧へ、そして近現代のアメリカと日本へ、独裁よりも議論によって国家の大事を決めるという習慣が継承されているように感じる。 つまり地中海から大西洋、そして太平洋へという、普遍的な文明の長期的な連続移動性である。この歴史の動きの中にある国は「交換的」であり、そうでない国は「統制的」である。 かつて交換文明の起源の地であった地中海周辺は現在、その「交換エネルギー」のホットスポットから離れているし、最近の政治の右傾化を見れば西ヨーロッパも少しずつ冷めてきているのかもしれない。