河井夫妻逮捕の本質――案里氏を当選させた有権者と選挙制度
昨年7月の参院選をめぐり、前法相で衆院議員の河井克行容疑者と妻で参院議員の案里容疑者が公職選挙法違反(買収)の容疑で東京地検に逮捕されました。 建築家で、文化論に関する多数の著書で知られる名古屋工業大学名誉教授・若山滋氏は「二人が逮捕されて裁かれれば一件落着というわけにはいかない」と指摘します。問題の本質はどこにあるのか。若山氏が独自の「文化力学」的な視点から論じます。
本質はどこに
河井克行・案里夫妻が逮捕され、連日、広島県の県議、市長、町長といった地元政界の有力者たちが、夫妻側から金を受け取ったという告白証言を続けてきた。 かつての自民党では総裁選挙に金が動いたものだが、多くの有権者がいる国政選挙、しかも選挙区の広い参院選において、こういうかたちで金が動くのは珍しいように思う。その意味で、前代未聞の大掛かりな買収事件というべきか。 しかし河井夫妻だけが悪人で、二人が逮捕されて裁かれれば一件落着というわけにはいかないだろう。黒川検事長の定年延長問題においても、賭け麻雀のスキャンダルが暴露され、政権による検察の囲い込みという問題の本質がボケてしまった。われわれは河井夫妻よりもむしろ、買収をバックアップしたであろう党そのもの、金を受け取った地元の有力者たち、さらに案里議員に投票した有権者(県民=国民)にも目を向け、日本の選挙制度そのものを考え直さなくてはならないのだ。
日本文化としての選挙ミステリードラマ
県議、市長、町長といった地元の有力者たちが、次から次へと、改悛の情とともに収賄の事実を告白する姿は、少なくとも海外では滅多に見られない光景だが、日本では似たような頭下げシーンが、不祥事を起こした公的機関や企業や学校などでもよく見られる。もはやこの「頭下げの告白」はひとつの文化となっている。 有力者たちの話を聴いていると、己を恥じてその職を辞する者もいるが、そうでない者もいる。自白は、世間の雰囲気が変化して、自分だけが孤立するのを避けようとする、まさに「空気の研究」(山本七平)の対象になりそうな現象だ。 たとえばテレビのミステリードラマにおいて、京都か、温泉か、鉄道を舞台にして展開された殺人事件の犯人が、海辺か、川辺か、ビルの屋上で、改悛混じりに罪の告白をする。ドラマの中の刑事や探偵や記者たちは、その犯人の心根に同情して「世間」からはみ出した人間を再び「世間の枠」に戻そうとする。つまり日本文化独特の「家的粘着力」がはたらくのだ。 同じミステリードラマでも、刑事コロンボや、名探偵ポワロには、そういった「世間」を基盤とした「家的粘着力」は見られない。罪は罪、悪は悪として扱われる。とはいえ、イギリスでは遺産相続が動機となり、アメリカ西海岸では犯人が知的エリートであることが多く、それぞれの文化が顔を出す。またコロンボはイタリア系であり、ポワロはベルギー人であり、日本の「同質な世間」とは逆に、人種的多様性にともなう偏見が絡んでいるのも文化というものだろう。 「罪の意識」が、欧米では神と個人の関係で構成されるのに対して、日本では世間と家の関係で構成される。そして今回は、それが国政選挙にも反映されていることが露呈した。いわば選挙が、ミステリードラマと同じ文化意識を基盤にして行われているのだ。