SNS時代をクリエイターとして生きる術 写真家Laskeyさんに聞く
SNS全盛時代、クリエイターと呼ばれる職業もあり方が多様化してきた。カメラマンもその一つ。プロ・アマ問わずさまざまな人々がSNSで写真を発信、気軽に交流もする中、プロとしての自分をどうデザインしていくのか。現在50代、日本写真協会員でケンコー・トキナーでワークショップ講師を務める写真家のLaskey(ラスキー 本名:堀尾浩一朗)さんに聞いた。 【写真特集】ポートレート作例をLaskeyさんが解説
写真との出会い 被写体が魚から人物へ
もともと家には写真が好きだった父がいて、10代の頃からドイツの高価なカメラであるライカを借りて使っていたという。 「当時、父の撮った写真がよく新聞に出たりしていました。自宅の風呂を暗室にしちゃうので、父が現像を始めると風呂に入れないんです(笑)」 そんなLaskeyさんが自発的・本格的に写真を始めたのは成人してからだった。趣味のダイビングで、友達に借りた水中カメラを持ち海に潜ったことがきっかけだったという。 「海の中が素晴らしかった。あの感動は言葉では語り尽くせません。でも撮影技術を知らないから真っ暗で何も撮れておらずフィルム代が無駄になるばかり。そこで仕事の傍ら夜間の写真学校に通い、通信教育も受けました。雑誌のコンテストに応募するようになるとビギナーズラックで載るようになって写真家の秋山庄太郎先生(故人)の目にとまり『水中写真で雑誌の巻頭カラーやらないか』と声をかけてくださって」 もっぱら水中で魚を撮っていたが、やがて被写体は人物に変わっていく。 「フィルムからデジタルへ移行する2000年前後、たまたま借りたデジタルカメラが面倒くさいカメラでぜんぜん撮れず、しばらく撮らない時期がありました。そのあと知り合いに頼まれて人を撮ったらすごく魅力を感じるようになったんです」
企業の社員で生活基盤を確保 そのうえで写真と関わる
すでに企業の社員だったが、運良く写真にかかわり続けることができた。 「サラリーマン的に写真と関わって、給料は毎月入ってくるわけです。最初から写真一本でやっている写真家の方々は覚悟を決めてやってこられたんでしょうけど、僕の場合そこまで行かなかった。写真一本の人たちと比べると生活環境がすでにそれを許さなくなっていました。」 まずは安定した生活基盤を作り、そのうえで写真に関わる。ある意味それはLaskeyさんにとっては個人事業主として写真ひとすじでやってきた人々と比べ引け目でもあったが、結果的にそれが今でも撮影の仕事を続けていられることにつながった。 「写真家で成功している人は、ほんの一握り。秋山先生からも『写真でやるなら赤貧も覚悟することが必要』と。もう会社入ってて旨味にも浸っていたので、いまさら会社をやめる気になれなくて。そこを覚悟できた人がたぶんいまの高名な写真家の皆さんだと思うんですが、僕は収入は確保しながらある意味安全パイでやってきた。ちょっとずるいというか中途半端だなって思うけど、そういう選択をしちゃったわけです。本当に好きなことを長くやろうと思うと安定した収入がないと困るなと思ったんです」