ウオッカの日本ダービーは本当に牝馬による64年ぶりの優勝劇だったのか?!
桜花賞を負けたのにダービーへ挑んだ理由
先週のオークス。デアリングタクトが63年ぶりとなる無敗の桜花賞、オークス二冠制覇を成し遂げたが、13年前にも歴史を掘り返す出来事があった。2007年、皇太子殿下の行幸啓を賜った日本ダービーを優勝したのはウオッカ(栗東・角居勝彦厩舎)。こちらは牝馬としては64年ぶりとなる日本ダービー制覇と騒がれた。しかし、果たしてそれは本当だったのだろうか?
04年4月4日、北海道、新ひだか町にあるカントリー牧場でウオッカは生まれた。父はダービー馬のタニノギムレット、母はタニノシスター。父母共にカントリー牧場二代目の谷水雄三が所有した馬だった。
06年に新馬勝ちでデビューしたウオッカは3戦目にはG1阪神ジュベナイルフィリーズを優勝。3歳となってからもチューリップ賞(G3)を勝利し、そこまで5戦4勝。続く桜花賞(G1)を前に陣営から「勝てばダービーへ挑戦したい」とコメントが出された。
その桜花賞は単勝1・4倍の圧倒的1番人気に推された。しかし後の女傑はここでライバルの後塵を拝す。早目先頭から粘り込みをはかったダイワスカーレットを1馬身半、とらえきれないまま2着でのゴールとなったのだ。
牝馬同士の一戦を取りこぼしたため、ダービーへの挑戦は断念せざるを得ない。一時はそういうムードが漂った。当時、オーナーの谷水も次のように話した。
「桜花賞を勝てばダービーという話でしたからね。勝てなかったことで一度はオークスにしようという方向で話を進めました」
しかし、そのオーナーが指揮官と話した際に事態は急展開する。再びオーナーの当時の弁。
「角居調教師が『オーナー、次はどうしましょう?』と言うのです」
その言葉はつまり“オークスにしますか? それともダービーにしますか?”という意味だった。先述した通り谷水はカントリー牧場の二代目。先代の谷水信夫はタニノハローモアとタニノムーティエでダービーを2勝していた。一方、雄三はタニノギムレットで1勝。もう1勝して父に並びたいという気持ちがあった。そのため、角居にその決定権を預けた。角居は言う。
「クラシック戦線をみているうちにこの世代の牝馬は強いと思いました。それで、挑戦して良いならダービーに向かわせて欲しいと伝えました」
この決断が歴史を動かすことになった。
ダービーでの鞍上の心境
手綱を取ったのは、現在、技術調教師として開業を控える四位洋文。当時34歳。ジョッキーとして脂が乗った時期だった。
「彼女が力を発揮するために自分には何が出来るかと考えて乗りました」
具体的には出来る限りナーバスにならないように、先手を打ったと続ける。
「長距離輸送が初めてなら東京競馬場ももちろん初めて。周囲は牡馬ばかりだし、ダービーなので雰囲気もまるで違います。その上、スタートはスタンドの前。女の子にとっては楽な舞台じゃありません。だから少しでもカリカリしそうになったらすぐに『大丈夫だよ』となだめました」
その成果もあって落ち着いた状態でスタートを切れた。序盤は掛かる素振りを見せたが、それも想定済みだったので慌てはしなかった。
「多少行きたがるのは最初から予想出来たことなのですぐに前を壁にしました」と四位。するとすぐに折り合った。みると1番人気のフサイチホウオーや皐月賞馬ヴィクトリーらを視界に入れる位置で走れた。しかし、鞍上は道中を次のように振り返った。
「有力馬がいるのは分かったけど、そういう馬達の動きがどうであれ、とにかくウオッカのリズムで走らせてあげる事に集中して乗っていました」
結果「3コーナーから上手に上がってくれたし、直線では前の馬達の脚が上がっているのが分かった」と言う。
それをスタンドから見ていた角居は次のように感じていた。
「桜花賞より状態は上がっているから好勝負になると信じて見ていました。好スタートで好い位置をとり、4コーナーの手応えも充分に見えた。最後の直線は『これで負ければ仕方ない』という思いで見ていました」
再び四位の弁。
「直線では想像以上に速い脚で抜け出しました。ゴール前は後ろから何か来るんじゃないか?とハラハラした半面『これ以上の脚を使える馬はいないだろう?!』『勝てただろう?!』って思いながら追っていました」
結果、2着のアサクサキングスに3馬身の差をつけてゆうゆうとゴールに飛び込んだ。牝馬が真っ先にダービーのゴールを駆け抜けたのは1943年のクリフジ以来、史上3頭目のことだった。角居の決断がそんな快挙を生んだ直後、ウオッカの鞍上で、歴史を作ったジョッキーの頭の中を様々な思いが駆け巡った。
「谷水オーナーや角居先生、厩舎のスタッフだけでなく、自分の師匠や、乗馬を習い始めた頃の先生、これまで支えて来てくれた人達や両親の顔まで思い浮かびました」
思えば四位がウオッカに乗れたのには伏線があった。彼が91年にデビューした際の師匠は古川平だった。この師匠の厩舎に谷水が馬を預けていた縁があり本人曰く「デビュー当初からかわいがってもらった」。そして……。
「タニノギムレットが皐月賞に出た時も乗せていただきました。でも、うまく乗ってあげられずに負けてしまいました。それなのに今回のダービーで大役を任せていただいた。感謝しかありません」
64年ぶり牝馬による日本ダービー制覇と言うよりも……
その後2008年には年度代表馬に選出され、牝馬としては初めて賞金10億円を突破するウオッカだが、何よりもセンセーショナルだったのはこのダービー制覇が牝馬としては64年ぶりの大偉業だった事だろう。
しかし、私はこの文言を耳にするたび違和感を覚えた。いや、数字上はこれを誤りとは言えないし、事実であり史実であるのは疑いようがない。ただ、日進月歩の著しい競馬の世界に於いて64年の時の隔たりというのは明らかに別の次元、異なる世界を作り出したと思えるのだ。つまり“64年ぶりの牝馬による日本ダービー制覇”は間違いではないが“近代競馬史上初の牝馬による日本ダービー制覇”という方が的を射ている。引退後、アイルランドで繁殖にあがった彼女を訪ねるたびに、それくらいの偉業だったと感じたのである。
(文中敬称略、写真撮影=平松さとし)
*なお今回の原稿は過去の取材と電話による取材で構成しました。お忙しい中、時間を割いてくださった皆様、ありがとうございました。