韓国平昌五輪で再注目。そもそも半島はなぜ南北に分断したのか
平昌冬季五輪へ選手団を派遣すると決まり「南北融和」の声があがる一方で核実験とミサイル発射を繰り返し2017年は思い切り緊張を高めた北朝鮮。そもそも何でこの国は存在しているのでしょうか。南北分断のいきさつを振り返ってみました。徹底的に分析すると書籍1冊分をゆうに超えるため、かなり端折ったのをお許し下さい。
カイロ宣言で日本敗戦後の朝鮮半島は「自由且獨立」と決まる
668年の新羅による半島統一以来、高麗、李朝と朝鮮は王朝交代期の一時を除いて王政下で統一されていました。1392年建国の李朝から「一切ノ統治権ヲ」「譲与」するという韓国併合条約を1910年に結んだ日本は以後この地を植民地支配するも、一括した支配という点でのみ変わらなかったともみなせます。では45年の敗戦と同時に日本の支配が消え去った時にどうして統一国家が生まれなかったのでしょうか。
日本と戦った連合国首脳会談で出された43年のカイロ宣言で米英中が「朝鮮ノ人民ノ奴隸状態ニ留意シ、軈テ朝鮮ヲ自由且獨立ノモノタラシムル」とし、ソ連が会談に加わった45年のポツダム宣言で「カイロ宣言ノ条項ハ履行セラルヘク」とあり、そのポツダム宣言を受諾して日本は降伏したのだから本来は丸ごと「自由且獨立」となってしかるべきはずでした。
「ヤルタの密約」でソ連に対日参戦の名分が与えられる
問題はその間のヤルタ協定です。45年2月、F.ローズヴェルト米大統領主導で「ソヴィエト連邦が」「連合国側において日本国に対する戦争に参加することを協定し」ました。あえて約束したのは41年に日本とソ連が中立条約を結んでいて有効期限の46年4月24日までソ連は対日参戦できなかったから。後のポツダム会談に参加しながら対日参戦まで宣言に名を連ねなかった事実から察してソ連が中立条約の存在をかなり気にしていたのは確かです。
この「ヤルタの密約」を根拠にソ連は45年8月9日に対日参戦。当時日本が実効支配していた「満州国」(中国東北部)をたちまち席巻して朝鮮半島までなだれ込んできました。
ヤルタでソ連の対日参戦をうながしたのはアメリカ、もっといえば大統領とみられています。対日戦で勝利濃厚な情勢でローズヴェルトがわざわざソ連に力水をつけるような真似をした理由は大統領の体調不良説も含め今もって諸説紛々。
米予想外のソ連侵攻で「38度線」を持ち出す
米政府はソ連の半島進出を想定していなかったらしく大いに驚き、あわてて北緯38度線(現在の南北国境)を「真ん中辺かな」と泥縄式に思いつき同線より南は米軍が分割占領するという案をソ連に示しました。ソ連が蹴飛ばせば半島すべてを手に入れる可能性が高く、かつ米側もそれを押し戻す軍事力を投入する自信はまったくなかったようです。ところがソ連はあっさり受け入れます。
このあたりの米ソの思惑もまた分析し尽くされたとはいえません。たぶん両国とも当初、半島云々はたいして関心がなかったのではないでしょうか。
つまり「ヤルタの密約」さえなければソ連は対日参戦できず、ゆえに日本の植民地であった朝鮮半島にも踏み込めず、となるとソ連主導の北朝鮮「朝鮮民主主義人民共和国」(北朝鮮)樹立もなかったかもしれません。
もっともこの辺は「歴史のイフ」に過ぎないかも。それを言い出したらソ連の参戦がなければ日本も結局は本土決戦にまで至って中立条約期限切れまで頑張ってソ連はやっぱり参戦したと予測できなくもないからです。
米ソの信託統治案と呂運亨による幻の統一国家
いったんは米ソの支配下に入った半島ですが、ヤルタ会談の際に半島は連合国の信託統治下に置くとされ、45年12月の米英ソ外相会議(モスクワ協定)でも5年間、信託統治すると決まります。米ソ合同委員会を設置して新朝鮮の臨時政府結成の方策を話し合い円満な自治独立へ向かっていくための支援が信託統治の目的でした。
南部へ米軍が上陸する直前、民族主義者から左翼まで含んだ「朝鮮人民共和国」が呂運亨(ヨ・ウニョン)の手で結成されるもアメリカから否定されて失敗に終わります。これまた歴史のイフですが、もし「朝鮮人民共和国」をアメリカが承認していたら敗戦後に朝鮮半島は統一国家になれたのか、それともアメリカが心配したように結局は半島全土がソ連の支配に落ちたのでしょうか。
「反託」でソ連に見捨てられたチョ晩植
一方、北部は植民地支配時代の抗日自治組織のリーダーでキリスト教徒のチョ晩植(チョ・マンシク)の影響力が南にも及ぶほど大きくソ連も一目置いていました。しかし信託統治反対(反託)の姿勢を貫いてリーダーの地位を下りてしまいます。すでにソ連と極めて親密だった金日成(現在の金正恩北朝鮮委員長の祖父)が活動を活発化させていて取って代わられました。
反託は朝鮮人の多数意見でしたからやむを得なかったのかもしれませんが、彼の姿勢が異なれば今日に至る「金王朝」は誕生しなかったのでは……との想像する誘惑が絶ちがたい人物です。朝鮮戦争の頃に北朝鮮当局に殺害されたとみられます。
反託運動が吹きすさぶなか、米ソはモスクワ協定にしたがって「共同委員会」を2度にわたって催し、半島に臨時政府を樹立する方策を話し合いました。しかし反託勢力排除の原則論を貫くソ連と協議の対象に含めてもいいと柔軟な方針を採ったアメリカの溝が埋まらず47年に決裂。アメリカは45年設立の国際連合へ解決を求める方針転換を行います。47年11月、国連が組織する臨時朝鮮委員会(UNTCOK)の監視下で総選挙を行うという提案が総会でなされて決議されました。UNTCOKの構成国に米ソは加わっていません。
南北の固定化
48年、UNTCOKは朝鮮南部を訪れるも北部からは来訪を拒絶されました。南だけでも総選挙を実施したいとするアメリカ軍政の圧力もあってUNTCOKも紛糾するも結局は承認します。選挙は5月に実施されて(初代総選挙)、8月に「大韓民国」樹立宣言。同月に北も人民会議代議員選挙を行って9月、「朝鮮民主主義人民共和国」を樹立を宣言します。南北分断が決まった瞬間でした。
大韓民国は初代総選挙で選ばれた国会議員の賛成多数で李承晩(イ・スンマン)が大統領へ就任。彼は1919年に中国で創設された「大韓民国臨時政府」(臨政)初代大統領を務め、植民地時代の多くをアメリカで過ごしたため知己が多く、戦後帰国後は「反託」でありながら米軍政とは融和的でゆえに強烈な反共産主義者でした。反日姿勢も著しく今日のような民族主義的熱狂を反日で受け皿にしていくような祖型を築いた人物です。
臨政は韓国憲法に現国家の「法的伝統」と位置づけられている一方で当時は国際承認を得ていませんでした。2017年12月、訪中した文在寅(ムン・ジェイン)韓国大統領は重慶の臨政旧庁舎を訪れました。持論の「2019年建国100年」の根拠である臨時政府への敬意を主に国内向けに示したかったのでしょう。
南北分裂の過程では他に金九(キム・グ)や朴憲永(パク・ホニョン)といった有力者がいました。米ソ両国の場当たり的対応や、その妥協策にすぎなかったと思われる信託統治に対する、よく言えば真っ当な、悪くすれば過剰な反応がさまざまな指導者の運命を決めた挙げ句、北はソ連のかいらいといって過言ではない金日成が、南はアメリカのエージェントのような李承晩が、それぞれ分断固定化を肯定しつつ権力を握ってしまったのです。