「オールドメディア」の「公正」「正確」は自縄自縛。敵はネットでなく「公(おおやけ)」頼りのあり方では
4月の衆院東京15区補選あたりから東京都知事選挙、兵庫県知事出直し選挙などで新聞・雑誌・放送など「オールドメディア」への批判が高まっています。影響力を高めたSNSなどのネット勢に勝った負けたなどの見解を述べる方も。
ここで「オールドメディア」が金科玉条の如く唱えるのが「我々は公正・正確を追求している」です。でもそうした規制はどこにもありません。放送だけは放送法4条規定があるも近年の撤廃論議で当の放送側が反対しました。理由は「偏った放送が増える」あたり。
それでいて「オールドメディア」に向けられる主な批判が公正でも正確でもなく偏っている、あたり。何でこうねじれているのか。「オールドメディア」自身の主張を中心に検証してみました。
法は選挙報道を「自由」を定めている
公職選挙法は「文書図画」に関して法が定めるビラ、はがき、パンフレット、書籍、ポスター、立札、ちようちん、看板といった公認されているもの以外で原則「候補者の氏名若しくはシンボル・マーク、政党その他の政治団体の名称又は公職の候補者を推薦し、支持し若しくは反対する者の名を表示する」を禁止しています。
ところが、こうした一連の「あれもダメこれもダメ」の後の148条で「新聞紙、雑誌の報道及び評論等の自由」を定めているのです。具体的には「選挙に関し、報道及び評論を掲載するの自由を妨げるものではない」と。許されないのは「虚偽の事項を記載し又は事実を歪曲して記載する等表現の自由を濫用して選挙の公正を害してはならない」。
新聞協会自身が「選挙法上は無制限に近い自由が認められている」と断じる
この条文について日本新聞協会は1966年に「統一見解」として虚偽や歪曲でなければ「政党等の主張や政策、候補者の人物、経歴、政見などを報道したり、これを支持したり反対する評論をすることはなんら制限を受けない。そうした報道、評論により、結果として特定の政党や候補者にたまたま利益をもたらしたとしても、それは第148条にいう自由の範囲内に属するもので、別に問題はない。いわば新聞は通常の報道、評論をやっている限り、選挙法上は無制限に近い自由が認められている」と断じています。
与えられた特権がうらやましいフリーライターなど
つまり新聞(および雑誌)は好きなように報道していいわけです。だから選挙運動期間中の情勢分析なども大々的に掲載できます。公選法で報道が制約されているどころか正反対で端的にいえばデタラメでない限り何を報じても構わないとの特権を認められていると解してよさそう。
かつて新聞記者などを経験した後にフリーライターなどの立場で執筆するようになると真っ先に気になるのがこの条文です。「うらやましいな新聞は」と思います。
「新聞倫理綱領」に現れる「正確かつ公正」
あたかも制約を受けているかのように客観的な装いをする理由として148条の「表現の自由を濫用して選挙の公正を害してはならない」を重んじる風潮があるのは確かです。
日本新聞協会はまた2000年に新しい「新聞倫理綱領」を定めました。ここに「報道は正確かつ公正でなければならず、記者個人の立場や信条に左右されてはならない」と記されているのが候補者をなるべく公平にバランスよく扱わなければいけないという今の状況へつながっている可能性は大です。
問題は「公正」「正確」とは何かという所在にあります。おおよそ「公(おおやけ)」が該当しましょう。候補者が乱立して「主な候補者」を絞る場合は公職選挙法や政治資金規正法などに記された政党要件を満たしたものとしがちです。
「公(おおやけ)」報道こそ「記者個人の立場や信条に左右され」ていない?
「公(おおやけ)」こそ「公正」「正確」の根拠とみなしたら斎藤元彦兵庫県知事の百条委員会報道も納得できます。
百条委員会は地方自治法の規定で置かれ、調査権を行使する地方議会も同法の定め通りに存在するため正真正銘の「公(おおやけ)」です。だから誰が何をどう発言したかを逐一取り上げても「記者個人の立場や信条に左右されて」いないし、それを根拠とした論評も大丈夫となります。ありようが批判されたらきっと首を傾げましょう。「だって百条委員会だよ」と。
不信任決議から出直し知事選までの経緯も同様。淡々と「全員一致で不信任決議案が可決された。今後、知事は議会を解散しない限り失職する。過去に都道府県議会で解散を選んだ知事はいない」と書いても知事が悪い的なニュアンスに陥るのです。
フォーマットは微修正こそされたものの
「公(おおやけ)」重視は他にもあちこちでみられます。警察が逮捕したら実名報道していいという決まりがその典型。こうしたフォーマットは微修正こそされたものの大きく変わってはいません。結果的にネット社会になった今だと古色蒼然たる風情と化す原因ではないでしょうか。
放送法4条撤廃論議で民放各社は反発
放送に関しては公職選挙法は151条3項で「選挙に関する報道又は評論について放送法の規定に従い放送番組を編集する自由を妨げるものではない」とあります。新聞・雑誌と異なるのは「放送法の規定に従」わなければならない点です。
具体的には放送法4条の「政治的に公平であること」や「意見が対立している問題については、できるだけ多くの角度から論点を明らかにすること」あたり。これがあるから選挙運動中の報道が一挙に慎重に変わるというのは一応わかります。
ところが2018年に他でもない4条撤廃論が出てきます。共同通信が「安倍政権が検討している放送制度改革の方針案」として報じました。民放各社は「偏った放送が増える」など一斉に反発しお蔵入りしたのです。
安倍政権では総務大臣が公平性を欠く放送に4条違反を理由として電波停止を命じる可能性を国会で答弁するなど厳しめの姿勢を取っていたため一転しての4条撤廃論をいぶかしんだのは理解できるにせよ、逆手にとって「どうぞどうぞ。今後は好きに報道させていただく」という声がまったく出ていません。
そして今では4条を順守しているはずの番組へ「偏った放送」との批判が噴出しているのです。
多様な選択肢を提供するのを第一にすべきでは
以上のように新聞は他ならぬ日本新聞協会が選挙報道へ「なんら制限を受けない」「無制限に近い自由が認められている」と喝破し、放送も放送法4条で偏らない番組を制作しているとうたっています。「公正」「正確」は一般論として担保すべきとはいえ現状は過度に自粛して自縄自縛に陥っている感が否めないのです。
なぜ1人1票の平等選挙なのかも考え合わせたい。有権者が誰を選ぶかの基準は政策だろうが容姿だろうが何でもいい。奇妙な理由での投票も当然含まれます。それでも全有権者の総意は多額納税者や有識者に選挙権を制限するより正しいという前提があるのです。ならば報道は多様な選択肢を提供するのを第一にすべきではないでしょうか。
「オールドメディア」も誕生時はネットのようだった
「オールドメディア」も明治時代の誕生時は今のネットのようでした。最も古い新聞の記者は「羽織ゴロ」と呼ばれています。着衣だけは立派だけど中身はコロツキだと。勃興期の20世紀に入るあたりで「毎日新聞」の本山彦一は「新聞は商品なり」と唱え、黒岩涙香率いる「萬朝報」の記事は今でいう「暴露系」と似ています。
そのさまを夏目漱石は『坊つちやん』で「新聞なんて無暗(むやみ)な嘘を吐くもんだ。世の中に何が一番法螺(ほら)を吹くと云って、新聞ほどの法螺吹きはあるまい」と表現。何やら敵視しているようなSNSと大して違わなかったのです。
そこへ戻れとまでいえないにせよエリート然として「公正」「正確」を標榜し、しかも多くから公正でも正確でもないと批判されている状況は何とかすべき。敵はネットでなく内側にあるのではないでしょうか。