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【九州三国志】島津宗家を揺るがす内紛の果てに!忠良の采配が築いた中興の礎

華盛頓Webライター
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島津宗家をめぐる混乱は、守護職を譲った忠兼が後悔し、実久がその立場を利用して権力を奪おうと動き出すことでさらに深まります。

実久は加治木や帖佐の地頭を味方につけ、忠良と貴久に対抗して兵を挙げました。

貴久は窮地に追い込まれ、一時は鹿児島を脱出して田布施の亀ヶ城へ逃れることを余儀なくされます。

一方で忠良は、伊作を拠点に防備を固め、長期戦を見据えながら三州の情勢を慎重に見極めていきました。

反攻の火ぶたが切られたのは天文2年(1533年)。

忠良は巧妙な策を用いて次々と実久方の城を攻略し、着実に勢力を拡大していきます。

南薩摩の掌握を進めた忠良は天文8年(1539年)、市来鶴丸城の戦いで実久の弟・忠辰を討ち、実久を本拠地である出水へと追いやります

この勝利をもって、忠良と貴久は島津宗家の家督相続を実現し、島津宗家の再統一への道を開きました

しかし、忠良はそれだけにとどまらず、薩摩全土を完全に掌握し、次世代への基盤を築き上げていきます。

忠良がその後も手腕を発揮したのは、領内の政治・経済の改革です。

琉球との貿易を活性化させ、鉄砲を大量に輸入し、戦力を増強。

さらには万之瀬川に橋を架け、養蚕業を振興するなど、産業の発展にも尽力しました。

その徳と善政によって、「島津家中興の祖」としての地位を確立します。

また、忠良は人間の道を教える『いろは歌』を創作。儒教的な精神を平易な歌に込め、孫たちをはじめ家臣団の教育に力を注ぎました

孫たちへの期待もひとしおで、彼らの特性を見抜き高く評価します。

義久には三州の総大将としての器、義弘には雄武英略、歳久には智計、家久には軍略を見出し、その後の島津家繁栄の礎を築きました

忠良が施した教育は、薩摩藩士の郷中教育へと引き継がれ、薩摩特有の士風と文化の基盤を形作ることとなります。

永禄11年(1568年)、忠良は77歳で加世田にて生涯を閉じました

辞世の句には「不来不去 四大不空 本是法界 我心如心」と詠み、人生の悟りを示しました。

忠良の死後、その功績は神格化され、竹田神社に祭神として祀られるに至ります。

薩摩の中興を成し遂げた忠良の人生は、困難な時代の中で未来を切り開いた知恵と徳の物語そのものでした。

Webライター

華盛頓です。以前の大学では経済史と経済学史を学んでおり、現在は別の大学で考古学と西洋史を学んでいます。面白くてわかりやすい記事を執筆していきます。

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