【九州三国志】島津宗家の分裂と苦闘!忠良・貴久父子が挑んだ再統一の道
永正11年(1514年)、島津忠良の長男として田布施亀ヶ城に生まれた貴久は、大永6年(1526年)に島津本宗家の家督を継ぐべく、島津勝久の養子となりました。
当時の島津宗家は弱体化し、内部の対立が深刻化していました。
しかし、家督をめぐる混乱は収束するどころか激化していきます。
翌年、勝久が守護職を返上したことを後悔し、島津実久がこの事態に乗じて反旗を翻すと、貴久と忠良は窮地に追い込まれます。
貴久は夜陰に乗じて清水城を脱出し、田布施亀ヶ城へ退きました。
一方、実久は勝久との関係を修復し、守護職を再び取り戻すよう勝久を説得。
実久方の兵は鹿児島や南薩を攻撃し、清水城を攻略しました。
これにより、実久は一時的に名実ともに島津宗家の当主としての地位を確立します。
しかし、その背景には勝久と本宗家の老中(家老)たちの対立がありました。
勝久は自らに近い者を老中として登用した一方、古くからの老中たちは実久と結び、彼を新たな当主に擁立しようと画策したのです。
この結果、宗家内部の亀裂はさらに深まり、天文4年(1535年)には実久が守護職に就くクーデターが発生しました。
その間、忠良は薩摩半島南部の国人衆を味方に引き入れ、着実に勢力を拡大。
天文2年(1533年)、貴久は南郷城の実久軍を破り、初陣を飾りました。
この後、実久が守護職に就いたことで忠良・貴久父子との対立は決定的なものになります。
忠良は北薩の渋谷氏一族と連携し、実久の本拠地である出水と鹿児島を分断。
南薩の掌握に向けて戦いを繰り広げます。
忠良と貴久の長期にわたる戦いは、島津宗家を再び統一するための道のりでした。
その努力と戦略は、後に薩摩を中心とした勢力拡大の礎を築きました。
島津家の復興は、この混乱の中での忠良・貴久親子の奮闘によって支えられたのです。