【九州三国志】鶴丸城、薩摩を守る要塞!歴史と災害が形づくる城の変遷
江戸時代初期、薩摩の新たな象徴として築かれた鶴丸城は、関ヶ原の戦いで敗北した島津氏が生き残りを図るための拠点でした。
1601年、島津忠恒(家久)によって建設が始まり、1604年に完成。
この城は防御に不利とされる海岸近くに位置し、忠恒の父である義弘は最後まで築城に反対しましたが、徳川家康への恭順を示す簡素な屋形造の城として完成します。
本丸と二の丸が連なる単純な構造の平山城で、裏山である城山が籠城用の「後詰めの城」とされました。
防御面では実用性に欠けましたが、外城制度と呼ばれる家臣による防御網を張り巡らせ、幕府への敵意がないことを表すため天守は建てられませんでした。
しかし、幕末の薩英戦争ではその脆弱さが露呈し、イギリス軍艦からの砲撃を受ける事態に。
天守がないため寺院を天守と勘違いされるというエピソードも、この城の独特な設計を物語っています。
鶴丸城の運命は、災害や戦争とともにありました。
1873年の火災で本丸が焼失、続く1877年の西南戦争では二の丸も焼失しました。
廃藩置県後、城跡は鎮台や医学校、鹿児島大学のキャンパスとして利用されましたが、度重なる火災や空襲で多くの建物が失われます。
それでも鹿児島の人々にとって城の存在は特別であり、1979年には二の丸跡に鹿児島県立図書館が、1983年には本丸跡に黎明館が建設されました。
鶴丸城は、城そのものよりもその周囲を取り巻く地域史や社会の変遷を象徴する存在です。
2006年には「日本100名城」に選ばれ、歴史の中で何度も姿を変えながらも、その地に刻まれた記憶を今も伝えています。