【九州三国志】波乱の伊作氏を継ぎし者!島津忠良、その才覚と信念が生んだ薩摩の未来
島津忠良は、島津氏分家の伊作氏に生まれました。
しかし幼少期からその道のりは平坦ではなく、父と祖父が相次いで非業の死を遂げたため、母・梅窓夫人が一時的に家督を継いだのです。
伊作氏は周囲の豪族の攻撃にさらされ、母は田布施の相州家当主・島津運久の助力を得て何とか危機を乗り越えました。
その後、忠良を養子として迎えることを条件に梅窓夫人は運久と再婚。
忠良は若くして学問と禅の修行に励み、永正9年(1512年)、21歳のときに伊作氏と相州家の両家を継承しました。
忠良は領地で善政を敷き、学問と徳をもって民を治めました。
その評判は領内外に響き渡り、伊作・田布施の地を安定させたのです。
一方で、島津宗家は分裂と混乱の只中にありました。
第11代当主忠昌の死後、後を継いだ忠治、忠隆の両名が若くして世を去ると、宗家の基盤は揺らぎました。
第13代忠兼も宗家をまとめきれず、分家の薩州家当主・島津実久が実権を握り、忠兼を鹿児島から追放する事態に至ります。
この混乱の中、宗家は忠良に助けを求めました。
忠良は要請を受け入れ、長子・虎寿丸(後の貴久)を忠兼の養嗣子として送り込んだのです。
そして大永6年(1526年)、忠兼が守護職を貴久に譲ると、忠良は自身も剃髪して「愚谷軒日新斎」と号し、以後貴久を支えながら三州統一に邁進しました。
この一連の行動は、忠良の政治的手腕と大局観を如実に示しています。
混乱の時代にあって、忠良の徳と才覚は薩摩の安定を取り戻す要石となり、後の島津家の繁栄への道筋を築きました。
彼の生涯は、嵐の中で未来を切り開いた一人の武将の物語そのものです。