【九州三国志】恐るべき采配の島津義久!大将の器と、その人間味あふれる日常
徳川家康が島津義久に関心を寄せていたのは有名な話です。
本多忠勝を通じて耳川の戦いの顛末を尋ね、語られる内容に「楠木正成に勝るとも劣らない采配ぶりだ」と感嘆したといいます。
さらに家康は義久本人に戦での手柄話を問いましたが、義久は「弟や家臣が奮戦しただけ」と謙遜。
それに対して家康は「自ら手を砕くことなく勝利を得るのが真の大将」と、その器を称賛しました。
義久は戦略だけでなく政治や教養にも卓越した人物でした。
江戸時代初期には貧しい南九州にタバコ栽培を奨励し、後の薩摩藩に貴重な財源をもたらしたのです。
一方、彼の居室には歴史上の大悪人の肖像画が飾られていました。
不思議に思った家臣が理由を尋ねると、「良い行いは心がければできるが、悪い行いは知らず知らずのうちにしてしまうもの。常に悪例を目にして反省するためだ」と答えたといいます。
また、義久はその徳と教養でも知られ、細川幽斎から古今伝授を受け、近衛前久とも親交がありました。
城門を質素に保ち、「城門が粗末でも民が栄えていれば使者には通じる」と語った姿勢には、彼の政治哲学が現れています。
一方で、豊臣秀吉への臣従を求められた際には、細川幽斎宛てに秀吉の出自を批判する内容の書状を送り、その剛毅さで秀吉の心証を害しました。
義久の冷静な判断力と温かな人柄が垣間見える逸話も残っています。
ある日、立入禁止の狩場で雉を狩った家臣が見つかり、名前が書かれた笠を落として逃げました。
義久は笠に書かれた名前を消し、その家臣を許したといいます。
この寛容な行いに感動した家臣は後に殉死したという話も伝わります。
また、義久の哲学は末弟・家久との会話にも現れます。
馬の毛色が母馬に似る話題に対し、「人間は獣ではない。学問で徳を磨けば、不肖の親を超えることもできる」と諭し、家久はこの言葉を胸に学問と武芸に励んだといいます。
このエピソードからも義久が人材育成に長けた人物であったことがうかがえます。
義久の肖像画が現存しないのは残念ですが、泰平寺にある降伏の銅像や数々の逸話が、彼の存在感を今に伝えます。
「采配の鬼」とも言われる義久ですが、その裏には深い人間味と哲学がありました。
彼の言葉と行いは、薩摩のみならず日本の武将たちに大きな影響を与え続けています。