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『亡きスカウト、ヒロシマへの想い』

木村公一スポーツライター・作家

木庭教(きにわ・さとし)が逝って、5年が経つ。もし彼が生きていれば、86歳か。

そしてまた、この季節が訪れた。8月。

生前の木庭教。その人柄ゆえ、引退後も多くの取材も受けてきた。
生前の木庭教。その人柄ゆえ、引退後も多くの取材も受けてきた。

昭和32年に広島カープのスカウトとなり、同50年の赤ヘル優勝の際は功労者と讃えられるほど選手獲得に尽力した。のちには横浜、オリックス、日本ハムとスカウトとしては異例の「移籍」を重ね、62年、73歳のときに日本ハムを退団して球界を「引退」。そんな彼の業績は(拙著も含め)、多くの方が記しているから、ここで詳細は書かない。

それでも晩年、彼に影響を受けた者として忘れられないのは、彼の豪放磊落な、ときには達観した無頼派のような物言いと、信念だった。

彼は無類のギャンブル好きだった。パチンコはもとより、競馬、競輪、競艇……。ギャンブルと名のつくものは、彼の日常にいつもあった。競艇では、親しい選手の仲人までした。

彼に同行して、アマチュア選手の試合を見に行っていた頃のことだ。試合中、彼はお目当ての選手がグランドにいなければ、決まって駅で買い求めたスポーツ新聞を広げていた。タバコをくゆらせ(当時はまだスタンドでタバコが吸えていた!)、新聞に目を落とす。だが前日の高校野球の結果はほどほどに、むしろ熱心に目を注いでいたのは競馬欄だった。イヤホンでなにやらラジオを聞いていたこともあった。週末とはいえデイゲームのプロ野球中継はあったろうか。だがあっても、スカウトがプロの試合を聞く必要はまずない。いぶかしく思い訊ねると、彼は苦笑しつつ、近くの人に聞こえないよう口に手を当て、小声で返してきた。

「ケ・イ・バ」

身を持ち崩すほどにのめり込んではいなかったはずだが、引退して倉敷に居を移したあとも、毎週末は高松まで足を延ばし、競馬に熱を入れていた。それは肺がんの悪化と、腎臓透析が必要となるまで、続いていた。

「人生はギャンブル。だからこそ……」

木庭の、こんな言葉が今でも耳に残っている。

「人生それ自体、ギャンブルみたいなもんじゃろう。成功か失敗か。幸せになるか不幸になるか。ならば、一生懸命生きるべきだし、楽しむことはとことん楽しむべき。わしゃ、そう思うとるよ」

そして照れ隠しに、いつもヒッヒッヒッと、やや甲高い声で笑っていた。

だからだろうかスカウト時代の流儀も、いわば博打を好んだ。誰もが認める優れた選手には関心を示さず、追いかけたがったのは知名度は劣っても、意外性のある選手だった。

「誰もが評価する選手を獲るだけなら、スカウトなんぞいらん。給料貰うなら、それに見合う仕事をせんといかんじゃろう」。

つまりは欠点があっても、それを上回る魅力と映るポイント、能力を感じさせる選手を獲りたい。例えば、ストレートの球速や制球力の完成度は低いが、一点、スライダーのキレだけは抜群な投手。例えば、およそ打撃で長距離は望むべくもないが、とにかく足が速く、守備が素晴らしい内野手。例えば、高打率は期待出来なくても、強肩と一発の意外性に富んだ外野手……。

木庭が好み、その年に目をつけた選手は、そんな「但し書き」が付くような選手が多かった。個性、と置き換えてもいいだろう。

競輪の用語に「番手買い」というものがあるらしい。本命より2番手、3番手の選手にこだわる。無論、確率は低くなるが、当たれば配当は高い。

「そんな選手がプロの世界に入って鍛えられ、育てば。最初から注目されていた選手より、ええ選手、長くプレー出来る選手になるんじゃないか」

木庭はそう考えていた。まさに人生を賭ける。そんな選手でなければまた、プロという世界では生き抜いていけない。「堅実な人生を送りたいなら、サラリーマンになればええ」

それも木庭の口癖だった。

生前、そうした彼のこだわりは、広島カープという「貧乏球団」でスカウト稼業を始めたためだと聞かされた。今でさえ裏金が横行する時代。かつては念書(仮契約書)一枚書かせるために、多額の金が動いた。だが広島は創立時以来、選手スカウトの資金に乏しい。そのためにどれだけの好選手を、金持ち球団に取られていったか。

「だから、よそが関心を持たない選手、評価の低い選手の中から、光る者を見つけるかが仕事になった」。そこに職人的な気質も相まって、こだわりとなっていった、と。

だが彼の死後、そんな木庭の言葉の陰に、別の想いも働いていたのではないか、と思うようになった。

「広島退団の理由」

去年、倉敷を訪ね、残された夫人に会ったときのことだ。夫人は木庭が広島球団を離れ、当時の横浜に移った理由を教えてくれた。

木庭は昭和62年、その貢献からスカウトとしては異例の取締役までのぼり詰めた広島カープを退団し、横浜大洋ホエールズにスカウト部長として籍を移した。その年、古葉竹識(元広島監督)が横浜の監督に就任し、古葉の頼みで木庭も加わったと伝えられていた。とはいえ木庭と古葉は、一蓮托生とするほどの間柄ではなかった。木庭自身「ある程度、広島でスカウトとしての仕事をやり尽くした。自分が残っていては後任も育たない。ならば新天地で、もう一度、一からチームを作る役に立てれば」。

そうも言っていたが、結果的に当時の球団社長と対立してわずか3年で退団し、オリックスに移った。そのときの監督は上田利治。懇意というなら、古葉より上田の方がよほど親交が深かった。

ではなぜ、木庭は広島を離れたのか。

夫人は、こう口にした。

「一番の理由は、野球とは別のことだったんです」

それは、原爆のトラウマだった。

木庭はあの8月6日、爆心地のおよそ1キロ付近で、友人宅を訪れようとした際に被爆した。そのこと自体、彼も隠すことなく、聞いたこともあれば記事にもなっている。ただ、被爆した瞬間のことは、およそ口にはしていなかった。こちらも聞きづらく、また聞く必要もないと思っていた。夫人にも、同様だったらしい。

「それが他界する数ヶ月前に、木庭が言ったんです。“臭い”のせいだった、と」

……原爆が落ちて、人が焼け死んでいった。その焼ける臭いが、どうにも堪らんかった。町中が焼ける臭いで覆い尽くされた。口ではよう言えんが、とにかくいつまでも鼻に残った。堪らんかった……

人の焼け死んでいく臭い。それも爆心地だけで数万、数十万という、焼けていく臭い。

画像

広島の地にいる限り、その臭いから逃れることは出来ない。木庭はそう思った。そして横浜からの、古葉からの誘いがあったとき、迷わず広島を離れることを決めたという。

夫人は続けた。

「広島は、木庭にとって生まれ育った土地でもあり、スカウトという仕事でも本当にやりがいある時間を過ごせたところです。でも反面、耐え難い苦悩を抱え込ませた土地でもあったんです」

それでも、いやだからこそ、木庭はプロ野球という特殊な世界に身を置く中で、ひとつの信念を強く持った。

「どうせ生きるなら、生き残ったのなら、精一杯生きること」

そしてそんな選手を、獲得したい、と。

倉敷を訪れたとき、夫人に入院中の写真を見せて貰った。痩せ細った木庭は、自分が知る頃の、毒を吐き、ヒッヒッと冷笑する木庭ではなかった。

今でも脳裏には、心の中には、木庭教がいる。小柄で、ズボンのポケットに両手を突っ込み、小さく口笛を吹きながら歩いてくる木庭。

「仕事柄、高校生や大学生、若い子と接するからな。年はとっても、気だけは若いぞ」

そう言っては、ヒッヒッと甲高い声で笑う木庭。

彼岸から、果たして彼は、どのような想いで此岸の今の野球を、野球選手を眺めていることだろう。

『キャビンマイルド』をくわえて。

木庭さん……つまんないッすよ。

スポーツライター・作家

獨協大学卒業後、フリーのスポーツライターに。以後、新聞、雑誌に野球企画を中心に寄稿する一方、漫画原作などもてがける。韓国、台湾などのプロ野球もフォローし、WBCなどの国際大会ではスポーツ専門チャンネルでコメンテイターも。でもここでは国内野球はもちろん、他ジャンルのスポーツも記していければと思っています。

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