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「投げたくなかった…」松坂大輔が戦った“平成の怪物”という幻影

木村公一スポーツライター・作家
(写真:アフロスポーツ)

「ほんとは投げたくなかった。でも、最後にユニホーム姿でマウンドに立つ松坂大輔の姿を見たいと言ってくれる方々がいた。どうしようもない姿かもしれないけど、最後の最後、全部さらけ出して見てもらおうと思いました」

 10月19日、引退登板に先んじて行われた記者会見で、松坂大輔はそう述べた。

 どうしようもない姿。全部さらけ出す。

 引退を決めた投手としては、ましてや頂点を極めた男には似つかわしくない表現に思えた。とはいえ引退登板での彼のボールは、往年を知る者にとって、やはり寂しささえ抱くものでもあった。

 それでも松坂は、投げることを選んだ。

投げることをあきらめなかった13年間

 松坂は常に華やかな舞台の中心にいた。世代の中心にいた。その一方で、彼のプロ人生23年間の後半となる13年間は、故障との戦い。より正確に言えば故障にもがき、それでも投げることをあきらめなかった葛藤の時間だった。

 公になっているものだけでも、以下の故障を松坂は経てきた。

2009年、右肩を痛める。

2010年、肩痛で低迷。

2011年6月に右ヒジの靱帯手術である通称トミージョン手術。

2012年、メジャー復帰も右僧帽筋を痛める。

※この時期には、股関節にも違和感を抱いていた。

2015年、ソフトバンクに移籍して右肩の故障。

2019年、中日で右肩を再度負傷。

2020年7月、西武復帰も脊椎内視鏡頸椎(けいつい)手術。

2021年7月7日、右手のしびれが抜けず引退を表明。

 また今回の会見で、2008年のボストン時代、足を滑らせたときに右肩を痛めていたことを明かした。

理想の投球フォームを求めた「もがき」

 投手の投球フォーム、そのメカニズムは繊細であり、複雑だ。ましてや松坂のように高校時代から「投げ込んで肩を作るタイプ」は多投の傾向にあり、消耗品ともいわれる肩は、渡米前から相応のダメージを受けていたはずだ。

 投球動作の始動はしっかりと軸足で立ち、逆の足を上げ体重を軸足にのせる。そしてゆっくりとホーム方向に身体を移動させつつ、下半身から腰、肩、腕を捻転させながら、最後に指先でひっかくようにしてボールを離す。その一連の動作が円滑に、かつリリースする瞬間にパワーをボールにのせ、込める。

 もしそれが「正しい投げ方」の基本だとすれば、投手たちは皆、この基本の上に立ち、各自の理想のフォームを求めている。

 だが、ひとたびどこかに痛みを覚えると、正しい投げ方では投げられなくなる。そこで痛くない投げ方、ポイントを探しながら、かつ実戦で通用する球威、球速の維持を模索する。しかしそれは文字通り苦し紛れの作業であり、正しい投げ方ではないから、必ず影響は別のところに出てしまう。肩を庇えばヒジに、ヒジを庇えば首に、上体を意識していると下半身、とくに股関節に痛みや、痛みがなくとも柔軟性が失われたりする。

 松坂のもがきは、この繰り返しだった。

「水を飲んでも太るから」

 なにより、思い出される言葉がある。

「僕は水を飲んでも太る体質(タチ)なんで」

 もう随分昔のことになる。筆者が取材で松坂に話を聞いたとき。雑談交じりの会話で、彼はこう言って苦笑した。まだメジャーに行く前の西武時代のキャンプだったと思う。おそらくは他愛なく「身体に気をつけて」などと言葉を向けた。それに松坂がこう返した。「水を飲んでも太るから」と。

 果たして、あれは単なるジョーク、リップサービスだったか。

 ボストン・レッドソックスから破格の条件を受け、メジャー挑戦が実現したのは2007年のこと。そのわずか2年後くらいに、松坂の身体は変化していた。筋肉をつけて体重を増やし、ガッシリした体躯。

「メジャーの打者相手を抑え込めるボールを投げるには、もう少し体重を増やして重い球を投げる必要がある」

 そうした主旨での増量だったと記憶しているが、「太る体質」のアスリートにとっては危ない橋だったと思う。筋力は増やすことが出来ても、骨や靱帯はトレーニングして強く、太く出来るものではないからだ。そのため増減にもより慎重な調整がともなう。ましてや「水を飲んでも太る体質」だとしたら。

 かように故障と一括りにされがちなことも、実際には極めてデリケートなものだ。

あの夏があきらめの悪さの原点

 日本に復帰しても、松坂のフォームにはかつての躍動やキレが失われていた。評論家からも「今のフォームでは生きたボールは投げられない」といった指摘が為されたが、そうした状態は当の松坂本人も理解していたはずだ。しかしそれでも、そんなフォームで投げていたのは、わかっていてもそのフォームでなければ投げられない状態だったからだ。

 そして前述のように探り探りでフォームを作り、日本に戻ってきて、2016年にソフトバンクで1試合、2018年と19年は中日で13試合の登板に留まり、西武に戻ってからの2年間は、痛みとフォーム調整に費やし、消えた。

 ただ松坂は、そうした故障と戦う姿をほとんどといっていいほど見せなかった。そのため非難されることも少なくなかったが、言い換えれば苦しむ姿ではなく、戦う姿だけを見せたかったのではないか、とも思う。

 引退記者会見では、こんなことを言っていた。

「選手生活の後半は叩かれることの方が多かったですけど、それでもあきらめずに……あきらめの悪さを褒めてあげたいですね」

 そして、あきらめの悪さの原動力となったものとして、夏の甲子園を挙げた。

「すべてではないですけれど、あきらめなければ最後報われる。それを強く感じさせてくれたのは、夏の甲子園のPL学園との試合ですかね。最後まであきらめなければ報われる。勝てる。喜べる。あの試合が原点なのかなと思いますね。あきらめの悪さの原点ですね」

もうひとりの松坂大輔が戦ったもの

 ケガや痛みから気力も薄れるようになり、多くのアスリートはスポットライトの当たる表舞台から退いていく。一般の世界でも同じだ。

 だが松坂は、たとえ叩かれても、痛みや苦しみとの日々を送りながらも、あきらめる自分を良しとしなかった。

 あるいは、と思う。

 故障との戦い。それは表舞台の真ん中にいた松坂が、もうひとりの松坂大輔という“幻影”と戦っていた姿だったのかも知れない。向けられるカメラもなく、観客もいない中、ただ独りだけの。

スポーツライター・作家

獨協大学卒業後、フリーのスポーツライターに。以後、新聞、雑誌に野球企画を中心に寄稿する一方、漫画原作などもてがける。韓国、台湾などのプロ野球もフォローし、WBCなどの国際大会ではスポーツ専門チャンネルでコメンテイターも。でもここでは国内野球はもちろん、他ジャンルのスポーツも記していければと思っています。

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