【深掘り「鎌倉殿の13人」】源頼朝も辟易とした!無能で役立たずの源行家の悲惨な最期とは
7月10日(日)の大河ドラマ「鎌倉殿の13人」は、参議院選挙によって中止になった。せっかくなのでドラマの前半を振り返ることとし、源行家について考えることにしよう。
■源行家とは
源行家は、生年不詳。保元元年(1156)の保元の乱で斬首された、源為義の十男として誕生した。初名は、義盛である。治承4年(1180)、「打倒平氏」の機運が盛り上がると、行家は源頼政のもとを訪れ、八条院の蔵人に任命された(このとき行家に名を改めた)。
行家は以仁王の「打倒平氏」の令旨を手にして、怪しまれないよう山伏の姿に変装すると、各地の源氏のもとへ令旨を伝達した。しかし、行家の行動は紀州の熊野別当湛増に露見しており、湛増は平氏に報告したという。その結果、以仁王の「打倒平氏」の計画がばれたとの説もある。
■無能だった行家
治承4年(1180)、源頼朝は富士川の戦いで平家に勝利したが、行家は厄介な存在だった。富士川の戦い後、行家は頼朝に決起を促すが、断られると独自に行動した。
翌治承5年(1181)、行家は義円(頼朝の弟)とともに墨俣川の戦いで平家と交戦したが、敗北。行家は逃げたが、義円は討ち死にした。行家は盛んに合戦を勧めるが、いつも連戦連敗で、実績がほぼ皆無だった。
それゆえ、頼朝は行家を信用しておらず、行家は孤立して転戦していた。そもそも行家は十分な兵力がなかったので、勝算はほとんどなかったと考えられる。
墨俣川の戦いで敗戦後、行家は畿内に出没し、そして北陸道にも姿を見せた。神出鬼没と言えば聞こえはいいが、あまりの無計画かつ節操がなく、頼朝も辟易として、行家を「口先だけの男」と思っていたのかもしれない。
■木曽義仲、源義経と協力
行家は自分の要求が受け入れられないと、次は木曽義仲と行動をともにした。義仲は頼朝に先んじて入京し、後白河法皇の信任を得ていた。行家は、義仲をうまく利用しようとしたのかもしれない。
しかし、やがて義仲は後白河らから見放され、追討の対象となった。その結果、寿永3年(1184)1月に義仲が源義経に討たれると、行家は義経と協力するようになった。変わり身の早さが行家の持ち味だった。
元暦2年(1185)に平家が滅亡すると、行家は西国で勢力を拡大すべく再び暗躍した。頼朝としては、いかに叔父であるとはいえ、もはや看過することができなかった。
行家の追討令が出されたのは同年8月4日のことだで、行家は同じ境遇だった義経と連絡を取り、頼朝に対抗しようとした。義経は無断の任官を頼朝に咎められ、対立していた。
行家は義経と結託し、頼朝に叛旗を翻した。すでに後白河から頼朝追討の宣旨を得ていたが、味方となる豪族は乏しかった。同年11月、勝ち目が亡くなった行家らは都落ちしたが、その前途は多難だった。
■まとめ
翌年5月、行家は和泉国で潜伏生活を送っていたが、やがて地元の住民らの通報により、鎌倉幕府の手の者に捕縛された。同年5月12日、行家は子の光家・行頼とともに山城国赤井河原(京都市伏見区)で斬首されたのである。
行家は軍事的な才覚に乏しく、ほとんど戦果を挙げることがなかった。交渉能力には長けていたかもしれないが、武人としては落第だったのだ。