武田氏が滅亡したのは、長篠合戦が原因ではなかった!?
会社が倒産する理由は、実にさまざまで複雑である。武田氏が滅亡したのは長篠合戦が原因だったように思われるが、実はそう単純ではなかった。その点について、考えてみることにしよう。
元亀4年(1573)、武田信玄が病没すると、子の勝頼が家督を継いだ。勝頼は信玄と同じく、織田信長、徳川家康との戦闘を継続した。その中でよく知られている合戦が、天正3年(1575)に設楽原を舞台に繰り広げられた長篠合戦であろう。
この戦いは、武田氏が率いる戦国最強の騎馬軍団と織田・徳川連合軍の鉄砲部隊が注目されるが、今となってはいずれも疑わしいと指摘されるようになった。戦いの結果、武田氏は織田・徳川連合軍に敗れ、逆に反攻の機会を与えたのである。
しかも、それは単なる負けではなく、勝頼は馬場信春、山県昌景、内藤昌豊、原昌胤、真田信綱・昌輝兄弟などの有力な家臣を失った。死傷者は、1万に及んだという説すらあるので(死傷者の数は諸説あり)、致命的な敗北のようにも思える。
そのように考えると、長篠合戦は武田氏の大敗北であり、滅亡した最大の原因と思うのは無理からぬところである。ところが、武田氏が実際に滅亡したのは、その7年後のことなので、意外にもダメージがさほど大きくなかったようにも感じる。
長篠合戦後、織田・徳川連合軍が武田領国に攻め込むことはなかった。武田氏は北条氏と婚姻を通じた同盟を結び、上杉氏との関係改善も行っていた。武田氏は負けたとはいえ、態勢を整えていたのである。
天正6年(1578)、御館の乱(上杉景勝と景虎の家督争い)が勃発すると、勝頼は景虎(北条家の養子)を支援した。しかし、景勝との交渉で、のちに中立的な立場を取った。結果、景虎が敗北したので、北条氏は武田氏との関係を断ったのである。
それどころか、北条氏が徳川氏と結んだので、勝頼は窮地に陥った。天正8年(1580)の高天神城の戦いで、武田方の高天神城が徳川方に落とされた。その際、勝頼が高天神城を見殺しにしたという風聞が流れたので、家臣は疑念を抱いたという。
こうして家臣団の信頼を失った武田氏は徐々に弱体化し、天正10年(1582)3月に織田氏に攻め込まれて滅亡したのである。武田氏の滅亡は外交の失敗、家臣団統制の失敗に原因があったのではないだろうか。