「一帝二后」の問題。なぜ藤原道長は三条天皇と揉めたのだろうか?
今回の大河ドラマ「光る君へ」では、「一帝二后」の問題で三条天皇と藤原道長が対立する場面があった。「一帝二后」とは、正妻を意味する中宮と皇后を同時に立てることだが、何が問題だったのか考えてみよう。
「一帝二后」を採用したのは、三条天皇がはじめてではない。先代の一条天皇は藤原道隆の娘・定子を皇后とし、藤原道長の娘・彰子を中宮とした。これが「一帝二后」の先例とされている。
三条天皇には、即位する前に藤原娍子(済時の娘)が入内しており、第一皇子の敦明親王をもうけていた。三条天皇が即位した翌年の長和元年(1012)、藤原道長の娘・妍子を中宮とし、長年連れ添った娍子を皇后としたのである。
とはいえ、これがすんなり認められたのか否かは、はっきりとしていない。歴史物語の『栄花物語』によると、三条天皇は娍子を立后したかったが、納言クラスの娘(済時は大納言)にはその資格がないと諦めていた。そういう例が過去になかったのである。
三条天皇の意向を汲んだ道長は、すでに亡くなっていた済時に大臣を贈官することで、実現させようと考えた。道長の提案を受けた三条天皇は、済時に太政大臣(実際は右大臣)を贈り、娍子を皇后にしたのである。
『栄花物語』は文学作品であり、この事実を裏付けるたしかな史料もないので、道長が三条天皇の意向を汲んで提案したのかは不明である。しかし、三条天皇が済時に大臣を贈官したのだから、この方法が最善の策だったのは事実であろう。
こうして三条天皇は「一帝二后」を実現したが、娍子の立后の日と妍子の参内の日が同日になるというアクシデントに見舞われた。道長が娍子の参内を欠席すると、右大臣・藤原顕光、内大臣・藤原公季だけでなく、ほかの公家も欠席したのである。
そこで、三条天皇は窮地を凌ぐべく、藤原実資を頼り儀式を実行した。ほかに参内したのはわずか3名だったので、かなり寂しいものになったのである。
いずれにしても、三条天皇は親政を強く望み、道長は一刻も早く外孫の敦成親王(のちの後一条天皇。一条天皇と藤原彰子の子)を即位させ、権勢を振るいたかった。こうした意識のずれが、2人の対立へとつながったのである。