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幼い頃の徳川家康が拉致されて、織田方の人質になったという説は間違いだった!?

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
徳川家康。(提供:アフロ)

 再審請求で判決が覆り、名誉が回復されることは重要である。かつて、幼い頃の徳川家康が拉致されて織田方の人質になったという説があったが、今では誤りとされているので紹介することにしよう。

 天文16年(1547)、当時、竹千代と名乗っていた幼い頃の家康は、今川家に人質として送られることになった。しかし、義母の父で田原城主の戸田康光に拉致されると、織田信秀のもとに送られ、尾張国で2年余を過ごしたとされてきた。

 ところが、村岡幹生氏によって、それが誤りであると指摘されたので紹介することにしよう。村岡氏が根拠としたのは、以下の2点の史料である。

〔史料①〕

年未詳9月22日菩提心院日覚書状(本成寺宛「本成寺文書」)。

〔史料②〕

天文17年(1548)3月11日北条氏康書状写(織田信秀宛『古証文』)。

 史料①には、松平広忠(家康の父)が織田信秀に降参し、窮地に陥った状況が書かれている。この書状には年次が書かれておらず、永禄3年(1560)説が提起されていたが、明らかな誤りである。村岡氏はこの書状を分析し、天文16年(1547)に比定した。

 史料②には、前年の天文16年(1547)に信秀が松平方の安城城を攻撃したこと、岡崎の城を押さえたことなどが記されている。三河を支配していた広忠は、信秀の攻撃で窮地に陥っていたのだ。

 この2点の史料によって、天文16年(1547)に信秀が三河に侵攻し、広忠が降参したことが明らかになった。これまで広忠は死去するまで一貫して今川氏の配下にあったと思われていたが、そうではなく織田氏に属した時期があったことも判明した。

 先述のとおり、幼い頃の家康は戸田氏に拉致されて織田氏のもとに送られたと考えられていたが、実際はそうではなく、信秀に降参した広忠が人質として差し出したことが明らかになったのだ。従前の説は、再考を迫られることになったといえよう。

主要参考文献

村岡幹生「織田信秀岡崎攻落考証」(『中京大学文学会論叢』1号、2015年)

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『播磨・但馬・丹波・摂津・淡路の戦国史』法律文化社、『戦国大名の家中抗争』星海社新書、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書など多数。

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