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ダマスカス出身“在日30年”「これまで話さなかった本当のシリア」~アサド独裁を知る3人が語る(前編)

黒井文太郎軍事ジャーナリスト
アサド前大統領(左)と初代独裁者の父ハーフェズ(右) 写真:旧政権大統領府

 2024年12月8日、父子で54年の長期独裁体制だったアサド政権が打倒されました。この13年余りは民主化を求めるシリア国民を、アサド軍が軍事力で弾圧してきました。約2200万人の人口のこの国で、この13年余りの犠牲者総数は60万人以上、アサド政権により拘束された人は20万人以上とみられ、そのほとんどが拷問・処刑されたとみられています。家を失って難民・避難民になった人は全国民の約半分に及んでいます。

 この最悪のアサド独裁政権をシリア社会の“内部”から長年にわたって見つめ続けてきた3人が今回、緊急鼎談です。「在日30年のシリア出身の貿易商」「シリア居住歴21年の考古学研究者」「シリアに知己が多いアサド政権ウォッチ歴32年の軍事ジャーナリスト」が、アサド独裁の恐怖の真実と、そして新生シリアの行方について語り合いました。

ガザ―ル勇(イサム)

 1966年、ダマスカス生まれ。シリアの名産品の石鹸を中心に輸入販売を手掛ける貿易会社「クロスロードトレーディング社」代表取締役(本社・千葉県)。初来日は30年以上前で、日本で起業したのは25年前。数年間のシリア暮らしを除き、在日歴は30年近くになる。奥様はシリアで出会った日本人。2012年に日本に帰化し、現在は日本人。

山崎やよい

 1958年、京都府出身。考古学研究者として1989年より、シリア国立アレッポ博物館の客員研究員としてシリア移住。シリア人の考古学研究者と結婚。途中2年間のヨルダンでの博物館プロジェクト専門家としての時期を除き、2012年まで通算21年間、シリアで暮らす。アレッポ大学で教鞭もとった。現在はシリア避難民支援でシリア人女性により製作された手芸製品の販売を行なうボランティア組織「イブラ・ワ・ハイト」代表および、シリア危機のアドボカシー・人権/人道支援を専門とする日本唯一のNPO法人「SSJ」(スタンド・ウィズ・シリア・ジャパン)の監事を務める。

ホーム | NPO法人スタンドウィズシリアジャパン

イブラワハイト ibrawakhait 

黒井文太郎(写真右)
黒井文太郎(写真右)

黒井文太郎

 1992年にシリア人と結婚してそれから20年間、親族としてシリア社会と交流した。その間、シリアを何度も訪問。2011年に民主化運動・弾圧が発生した時には、隣国レバノンを拠点とするシリア人活動家グループ代表の取材も行なった。

今こそ本当のシリアを知ってほしい!

黒井 ガザールさんと私は今回が初対面です。そもそも今回の鼎談は、ガザールさんが私に会いたいと、ご面識あった山崎さんに相談されたのがきっかけ。山崎さんからガザ―ルさんのことを伺い、こういうシリアと縁の深い3人なら、アサド政権の問題について鼎談できないかと私が提案しました。シリアと深く付き合った人間は日本ではそれほど多くないので。

 ガザ―ルさんはなぜ私と話したいと思われたのですか?

ガザ―ル 私はずっと日本にいて、日本で報道を見ています。シリアは遠くて小さい国で、日本では報道自体が多くはないのですが、それでも紛争のニュースはやっています。ところが、そのマスコミのシリア報道がずっと偏っていることが気になっていました。アサド政権寄りのものばかりなんです。

 たとえば、アサド政権に反対する反体制派はすべてテロリストだとかアルカイダだとかいった悪いイメージに誘導する伝え方がしばしばされていました。もちろん現実にはそんなことはありません。それに、私は子供の頃からアサド政権の恐怖支配をよく知っているのですが、そうしたアサド政権の本当の姿もあまり報じられませんでした。

 それで、日本の報道はおかしいなと思っていたのですが、ずっと変わらなかったので、諦めていたんです。ところがSNSで黒井さんの投稿を読んで、日本にもシリアの現実をみている記者さんがいるということを知り、今回、アサド政権がやっと倒れた機会に、ぜひお会いしたいと思いました。私はこれまでシリアについてあまり本当のことを話す機会がなかったのですが、シリアの本当の姿についてぜひ話を聞いてほしいと思ったのです。

黒井 ありがとうございます。ではまず、それぞれのシリア、あるいは日本との関わりを、自己紹介のような感じでお願いします。

ガザ―ル 私は1966年、ダマスカスで生まれて育ちました。シリアではさまざまな仕事をしていたのですが、英語が好きだったので英語の勉強をして、20代半ばでシリアのシェル石油の事務所に職を得たのですが、外国人の上司たちの差別的な態度、尊大な態度で嫌になってしまい、辞めました。それでヨーロッパが嫌になった代わりに、アジアに興味が出たんですね。日本に行ってみたくなり、27歳で初めて日本に来ました。

黒井 それはいつ頃ですか?

ガザ―ル 90年代はじめのバブル後の頃で、代々木公園にイラン人が大勢いた頃ですね。

 仕事しながら日本語の教室にも行って日本語を勉強しました。日本語検定の2級まで取りました。当時、パレスチナ支援している日本人のグループと知り合いになって、その関係で大学関係者などにも知り合いが出来て、大学に呼ばれて定期的に大学生にイスラム社会について話す機会もありました。知人の紹介で、リビア大使館で事務員として短期間働いたこともあります。

黒井 最初の日本生活は何年ですか?

ガザ―ル 約4年です。その後、いったんシリアに帰り、向こうで旅行会社に入り、ガイドの免許をとり、シリアで初の日本語ガイドになりました。実はそのガイドの仕事で知り合った日本人の女性が妻です。

 そのうち日本大使館の人と知り合いになって、それが縁で、日本から来るPKOやJICAなど政府関係の人たちの通訳やお手伝い的なことを頼まれるようになりました。そういえば当時、統一教会まで来ていました。

 ところが、そうして日本から来た人の多くが、帰国するときにシリアのアレッポの名産品だった石鹸をたくさん買っていくんですね。それでシリアの石鹸を日本に輸出できないかなと考えていたら、知人の紹介でそういうことをやっている日本の会社と知り合い、そこのシリアでのマネージャーになりました。

 それで日本との貿易に関わることになり、2000年に日本に来て今の自分の会社を立ち上げました。34歳の時ですね。それから基本的には今まで生活は日本です。もう25年近くになります。その前にシリアで観光の仕事をしている時から日本には時々来ていましたから、日本との付き合いはかれこれ30年くらいになりますね。2012 年には日本に帰化し、日本人になりました。

シリアはシルクロードの西の要衝。街は白が基調(1984年、黒井文太郎撮影)
シリアはシルクロードの西の要衝。街は白が基調(1984年、黒井文太郎撮影)

考古学研究でシリア居住は21年

山崎 私はもともとメソポタミア地域の考古学が専門でしたが、1989年に国立アレッポ博物館の客員研究員になりました。それ以来のアレッポ生活です。途中2年間だけヨルダンに博物館専門家として派遣された時期がありましたが。最終的に日本に帰国したのは2012年。ですからシリアで暮らしたのは通算21年間になります。

黒井 ご主人もシリアの方ですよね?

山崎 向こうで知り合ったシリア人の考古学研究者で、アレッポ博物館のキュレーターでした。

黒井 やはり家族として暮らすと、シリア社会に深く関わる実感がありますよね?

山崎 そう思います。あちらはたいてい大家族で、いっきに濃密な人間関係になりますので。

黒井 2011年に民主化運動と弾圧が始まって、その翌年の2012年が最後ですね。その後はシリアとどう接して来られたのですか?

山崎 スカイプなどで現地の友人と連絡を取りながら、この12年間は国外からシリア情勢を見守る日々でした。連絡を取り合っていた友人というのは、とくにアレッポ大学で考古学を教えていた教え子たちがメインです。通話中に爆発音が聞こえて、教え子が「最近はこんなのばっかりだ」と言っていたことを覚えています。

 その後、2013年に、自分で何か現地の支援活動ができないかと考え、日本でも協力してくれる方々がいて、向こうの教え子たちと連携してシリアの女性たちが作る伝統的な手芸製品を販売する「イブラ・ワ・ハイト」(針と糸)という活動を始めました。この活動は紛争中もずっと続けて、現在もやっています。また、2016年にシリアの避難民支援を行なうNPO法人「SSJ」(スタンド・ウィズ・シリア・ジャパン)と知り合って、その活動を手伝うようになり、今は監事というかたちで関わっています。

黒井 私が山崎さんと初めてお会いしたのは、私がSSJのセミナーの講師として呼んでいただいた時でしたね。

山崎 そうですね。

1984年、黒井文太郎撮影
1984年、黒井文太郎撮影

黒井 私が最初にシリアに行ったのは、大学時代のバックパッカー旅行です。ダマスカスでたまたま知り合った日本人が中東政治を勉強している大学生で、彼がパレスチナ難民キャンプやPLO事務所などに取材に行くときに連れて行ってくれた。それまで私は国際紛争に特別な関心があったわけではなかったのですが、それがきっかけで興味を持ち、今はこんな仕事をするようになっています。なので、シリアでの体験は自分の原点でもあります。

ダマスカスのパレスチナ難民キャンプ(1984年、黒井文太郎撮影)
ダマスカスのパレスチナ難民キャンプ(1984年、黒井文太郎撮影)

 

 その後、若い頃は世界各地の紛争地帯の現地ルポを書くフリーランスのカメラマン兼ライターのようなことをしていたのですが、1992年にシリア人と結婚し、日本に帰国しました。それから20年一緒でしたので、シリア社会と親族として深く接したのは、ちょうどハーフェズからバッシャールにかけての20年間で、民主化闘争が始まって1年半後くらいまでになります。

 結婚した当初は、シリアは恐怖支配の独裁国家なので、実家の家族を危険に晒しますからシリアについて直接書くことは避けましたが、中東情勢は記者としての自分のカバー分野のひとつですし、もともとアラブ最凶のテロ支援国家/ならず者国家でしたし(当時の私のメインの研究テーマは国際テロでした)、やはり親族のいる国ですから、当然、アサド政権の動向を細かくチェックするようになりました。1992年からかなり細かくチェックし続けてきているので、アサド政権ウォッチ歴はもう32年になります。

 2011年3月に民主化運動とそれへの弾圧が始まった頃からは、かなり頻繁にシリア情勢の記事を書いています。民主化運動を指導したグループとも繋がり、同年7月には彼らの活動を隣国レバノンで取材しました。その後、実家の家族の安全がほぼ確保できる状況になったので、アサド政権の人道犯罪をメインに記事を書き続けてきました。

 ガザ―ルさんが先ほど仰ったように、日本のメディア報道ではアサド政権側のナラティブのプロパガンダに近い報道が主流だったのですが、私は逆にアサド政権の嘘について書くことがメインです。たぶん私は日本でいちばんアサド政権の嘘について記事を書いてきた記者だと思います。自分では反アサドという意識は全然なくて、単に客観的な事実を報じているつもりなのですが。

 たとえば2013年8月にアサド政権がダマスカス近郊でサリン攻撃をしたのですが、大手メディアでは「反体制派の自作自演ではないか」という解説が多かった。当時、TBSさんの生放送で隣席の外交評論家がそう仰ったので、私も視聴者に事実をお伝えする義務がありますから、「アサド政権軍が犯人に間違いないです」と断言しました。一般住民を毒ガスで惨殺するなどということを反体制派が考えるはずもないですが、アサド政権軍なら平気でやります。そんなことはお2人もご存知なように、シリア社会では常識ですからね。

山崎 そうですよね。

レバノンのシリア難民(2011年7月、黒井文太郎撮影)
レバノンのシリア難民(2011年7月、黒井文太郎撮影)

夫をシリアに残してレバノンに脱出した女性も多い(2011年7月、黒井文太郎撮影)
夫をシリアに残してレバノンに脱出した女性も多い(2011年7月、黒井文太郎撮影)

在日シリア人は本国に家族がいるので真実を話せない

黒井 アサド政権下での国民支配の実態についてお話してください。

ガザ―ル とにかくひどい恐怖支配体制でした。私が子供の頃は父のハーフェズ・アサドの時代ですが、彼が凄まじい監視社会を作っていました。町のどこにも秘密警察の要員がいて、全国民を監視していました。シリアではよく「壁には耳があるから気をつけろ」という言い方をします。

黒井 日本の「壁に耳あり」と同じですね。

ガザ―ル はい。たとえば小学校に行くとバース党の担当者がいます。彼が生徒たちに、親の言動を聞く。小さな子供たちは聞かれたら素直に答えてしまう。お父さんやお兄さんが大統領のことを話していたなどと答えたらアウトです。だから家でも本音で話せない。兄弟ですら本音を話せない。

黒井 だいぶ時期が後ですけど、我が家の娘たちも一時期、ダマスカスの公立小学校に行っていたことがあって、同じですね。

ガザ―ル とにかく町のいたるところに秘密警察がいて、少しでも独裁政権に不満を持っているかもしれないと疑われれば、片っ端から収監されます。たとえば私の親戚にも、捕まって10年以上も刑務所に入れられた人がいます。近所のおじさんなんかだと何人もいます。

 とにかく恐怖で人々を支配するのがハーフェズのやり方です。秘密警察は、何も話してないのが明らかな人でも、よく捕まえるのですよ。人々を恐れさせる目的で捕まえるわけです。

 それと、シリアには徴兵があったのですが、軍隊がまたひどいところでした。私は20歳から23歳まで軍にいたのですが、徴兵期間中にシリアの若者は徹底的な洗脳教育を受けます。とくに最初の6か月間は、軍事訓練というより精神的なイジメで恐怖心を植え付けられます。毎朝6時から夜の22時まで、毎日何かしらの罰則という口実で暴力を受け続けます。その間、アサド大統領への忠誠心だけを叩き込まれる。そうして恐怖心で洗脳するので、除隊する頃にはみんな、アサド独裁体制には絶対に逆らえないような精神構造にされます。

 

山崎 アサド政権の恐怖支配の徹底したところは、恐怖で黙らせるだけじゃないのですよね。その先、つまり不満を考えることもさせない。アサド政権は正しいのだと、それ以外は考えるなと、そういう思考停止までもっていこうとすることですよね。

黒井 そうは言っても人間なので、内心そうでない人もいると思うのですが、そんなことはおくびにも出せないですよね、危険なので。シリアを訪れる外国人も、そういうことを知らないと、ひたすらアサドを褒める現地の人を見て「アサドは国民に慕われているようだ」などと勘違いする。私は北朝鮮も取材したことがあるのですが、向こうで会った外国人の中には、そんなふうに勘違いしている人もいました。そんなわけないじゃん、と普通はわかると思うのですが。

ガザ―ル 日本のマスコミ報道がアサドに甘い傾向だと先ほどお話しましたが、シリア取材レポートも甘い記事が多かったと思います。記者はムハバラート(秘密警察)に完全マークされ、空港到着時から計画どおりの取材をさせられます。すべて監視下です。なのでシリア国民の声などと紹介されたものはすべて、事前に計画されたプロパガンダです。

黒井 アサド政権に批判的な現地レポートをすると、その会社はもうシリア取材の許可が下りなくなるという事情があります。欧米の大手メディアの記者は、それでもうまく批判的情報をレポートに入れ込むのに長けているのですが、そこは立場が強い世界的な大手と、国際的なオピニオンの力がなくて立場が弱い日本のメディアの違いはあります。

ガザ―ル アサド政権は恐ろしい恐怖支配の政権なので、日本にいてもやはり怖い部分はあります。なので、在日シリア人のほとんどの人は、日本に来ても怖くて口を開くことができない。どこかでアサド支持者の耳に入れば、秘密警察に密告される可能性があります。みんな本国には家族や親族がいます。

黒井 山崎さんはアサド政権の監視体制を体験したことは?

山崎 実は職場での私の上司だったのが後の主人なのですが、初めて職場に行った当日、いきなり「この国は変な国だから気をつけて」と言われて戸惑ったのを覚えています。当時の私は「まあ独裁でしょ?」くらいのイメージでしたが、予想以上に監視社会が徹底していたとの印象ですね。

 たとえば日本人の考古学研究者としてシリア国営テレビに取材されたことがあるのですが、それが周囲の人々の噂になって、あれこれ尾ひれがつけられて語られる。当時、みんなに言われたのは、個人の言動や噂がファイルされていて、年ごとにファイルが厚くなっていく。ここはそんな国だよということでした。

 それと、これは監視社会とはちょっと違う話なのですが、日々の暮らしで辟易したことのひとつは、ちょっとした権限を持っている小役人のような人が、アサド政権の権威を振りかざして威張っていること。そして、そんな人々による汚職が蔓延していることです。

黒井 汚職の蔓延はアラブ社会ではよくあることで、シリアだけの問題ではないかもしれませんね。

山崎 そうですね。でも本当に汚職はひどい。もちろんアサド独裁体制の上層部からしてそうなのですが、末端もその汚職のネットワークの中に組み込まれ、腐り切っていました。

当時のシリアの街中の川は臭かった(1984年、黒井文太郎撮影)
当時のシリアの街中の川は臭かった(1984年、黒井文太郎撮影)

独裁政権側のイベントに参加しないとマークされる!

黒井 私は結婚の手続きをするのに、アムン(公安機関)の身元調査を10年受けました。婚姻書類を出すのに東京のシリア大使館に行ったのですが、それで当初はシリア大使館との関係が密になります。アサド大統領の誕生日などの時は、大使館でセレモニーがあって、それに呼ばれたら行かなければなりません。行かないと本国の親族に危険が及びますので。在日シリア人の皆様が直立不動で整列し、大統領の写真に向かって何かポエムみたいな言葉を合唱するのですが、その中に私もいました。

 元妻は一時期、大使館でアルバイトみたいなこともして、それで大使館員が我が家に遊びに来ることもありましたが、もう大急ぎで国際政治関係の書籍を隠したりしました。ちなみに私は中東各国に渡航歴があるので最初は怪しまれたのですが、「世界各地の美しい風景を撮影している政治的には人畜無害なカメラマン」ということで通して乗り切りました。そのうち大使館に行く用事もだんだん減ってきて、顔なじみの外交官がいなくなり、縁が切れましたが。

ガザ―ル 日本でもアサド政権は怖いですから、私はなるべく関わらないようにしていました。ただ、ときおりパーティやイベントに声をかけられて、そういう時は顔を出します。行かないとマークされて、それも怖いので。

黒井 2000年に父アサドが死んでバッシャールになるわけですが、怖い父アサドがいなくなったのはシリア人たちからすればだいぶ解放感があったのでは?

山崎 国の雰囲気が明るくなりました。市民の声を載せる雑誌が出来たり、携帯電話が許可されたり、あるいは許可なく衛星テレビが見られるようになったり。他にも父アサド時代は制限されていた貿易が多少開放されて、新車などの外国製品が豊富に入ってきました。

 それでこれからは自由度が上がるのかなと多くの人は期待したのですが、政治的には強権的な恐怖支配は変わりませんでした。明るい雰囲気があったのも数年だけですね。バッシャールも最初は自分の肖像を掲げたりはしないというようなことを言っていたのですが、すぐに街中が肖像画だらけになりました。

 経済も開放されたけれども、それで支出が急増したり、投資で失敗したりして経済破綻者がいっきに増えました。2000年代に入ってバッシャール政権になって、一見改革ふうの統治になって実際に起きたことは、シリア社会での中流層の没落です。

黒井 結局、バッシャールの母方の従兄弟のラミ・マフルーフなどの政商だけが儲かる仕組みですからね。

ガザ―ル そうです。ですから2011年に民主化運動が始まったときは、わくわくしました。これでアサド政権が倒れればいいなと。シリア人はみんなそう思っていました。ただ、アサド政権の支配体制は強固なので、難しいことはわかっていました。

山崎 2011年に民主化デモが始まったときは、たまたま日本にいました。ただ、アサド政権の怖さは知っているので、シリアに限っては民主化革命は難しいのではないかと思っていました。シリア人の友人たちの多くも、もちろんアサド政権が倒れればいいと思ってはいましたが、でも難しいだろうと考えていた人が最初は多かったです。その少し前にチュニジアやエジプトの独裁がデモで倒されたことはみんなニュースで知っていましたが、羨ましいなというような見方の人が多かったと思います。

黒井 私もそうです。実は最初に3月6日に南部のダラアで少年たちが捕まった時、これが民衆蜂起のきっかけになるわけですが、アラビア語のサイトに未確認の噂として情報が流れました。それを義弟が教えてくれた。まだ英文では情報は出ていない頃です。

 私は興奮してブログに書いたのですが、アサド政権がすぐに鎮圧するだろうと考えていました。しかし、シリアの人々は私の予想を超えて民主化運動に立ち上がり、全国規模で反政府デモが起きます。当時、シリアの知人たちは全員、楽観的でした。「いずれにせよアサドはもう終わりだ」と知人たちはみんな言っていました。

ダマスカス近郊の町キスワトゥの民主化デモ指導者(2011年7月、レバノンの隠れ家にて黒井文太郎撮影)
ダマスカス近郊の町キスワトゥの民主化デモ指導者(2011年7月、レバノンの隠れ家にて黒井文太郎撮影)

 ただ、それでも私はまだ不安でした。当時、SNSを通じてデモの指導グループと接触して取材したのですが、武器を持たない彼らは外国の支援を望んでいながら「米国の助けは必要ない」とか言うのですね。シリアだけでなく中東は広く反米陰謀論というか「米国は石油だけが目的」のように考える人が多く、相手は「そんな米国との協力は嫌だ」と言うのですね。それで旧宗主国だったフランスが助けてくれるはずだ、などと言うのです。正直、「甘いな」と心配でした。

 そういえば当時、日本のシリア研究者などはさかんに「デモは米国が扇動」「ネットの反アサドの書き込みは外国人ばかり」などと解説していましたが、アサド政権側のプロパガンダそのものです。実態は、ネットで広報活動をしてたのはシリア人の若者たちで、彼らの多くは米国に不信感を持っていました。もっとも、米国との協力に積極的でなかったのは、結果的には当時の彼らの判断ミスで、やはりロシアやイランがバックにいるアサド政権とやり合うなら、早い段階での米国との協力は重要だったと思います。

(後編に続く)

軍事ジャーナリスト

1963年、福島県いわき市生まれ。横浜市立大学卒業後、(株)講談社入社。週刊誌編集者を経て退職。フォトジャーナリスト(紛争地域専門)、月刊『軍事研究』特約記者、『ワールド・インテリジェンス』編集長などを経て軍事ジャーナリスト。ニューヨーク、モスクワ、カイロを拠点に海外取材多数。専門分野はインテリジェンス、テロ、国際紛争、日本の安全保障、北朝鮮情勢、中東情勢、サイバー戦、旧軍特務機関など。著書多数。

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