内戦15年後のスリランカ戦場跡探訪~③分離独立派ゲリラ「タミル・イーラム解放のトラ」の本拠地をゆく
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ゲリラの本拠地はジャフナからキリノッチへ
スリランカ内戦は1983年に始まり、2009年に終結しました。反乱を起こしたのは、少数民族・タミル人のゲリラ組織「タミル・イーラム解放のトラ」(LTTE)です。
スリランカのタミル人社会の中心的な町が、北部のジャフナ半島にある要衝・ジャフナで、内戦前はスリランカ第2の都市でした。反乱を起こしたLTTEは当然、ジャフナ攻略に取り組み、1986年に占領。翌1987年にインド軍が制圧しましたが、LTTEは1989年に再占領。ジャフナに総司令部を置きました。
しかし、ジャフナは1995年に政府軍に奪還されます。ジャフナを失ったLTTEは奪還を狙ってその後も再攻勢をかけ、一時は主要部を再占領しましたが、短期間で再び奪い返されたという経緯があります。したがって、LTTEがジャフナを本拠地としたのは、1986年~1987年と、1989年~1995年までになります。
1995年にジャフナを失ったLTTEは、約50km南東部に位置する(街道の距離だと100km弱)キリノッチに本拠地を移しました。その1995年から、政府軍の猛攻撃で追い出される2009年1月まで、LTTEはキリノッチを自分たちの暫定政府の事実上の首都としました。
スリランカ内戦では停戦の時期もありました。2002年、ノルウェーの仲介で停戦したときは、ジャフナおよびジャフナ半島主要部を政府軍が掌握し、LTTEはキリノッチを本拠に北部・東部に広域の勢力圏を保持していた状況でgした。その後、2004年にLTTEの内紛で東部の有力グループが離反して政府側に転じ、LTTEの勢力は激減。停戦は2006年に破棄され、政府軍の再攻勢が始まります。
2007年には東部が陥落してLTTEの占領地はキリノッチを中心とする北部地域のみ(ヴァンニ地方といいます)になります。当時の最前線はジャフナ半島の南部の回廊周辺と、キリノッチの南方およそ70kmに位置する交通の要所・バブニヤ(政府軍の最北端の駐屯地点。その北方はLTTEの活動域)周辺で、各街道を中心に激しい戦闘が繰り広げられました。
戦局はその後も政府軍優位で進み、前述したように2009年1月にキリノッチが陥落。さらに政府軍はいっきに進撃し、同年4月までにLTTE残党を北東部のムッライティヴに追い詰めると、本連載の第1回で解説したように住民の大殺戮をともなう焦土作戦で、同年5月にLTTEは殲滅され、内戦は終結しました。
今回の旅で、東部のトリンコマリーやムッライティヴ周辺を取材した筆者は、ジャフナ、キリノッチ、バブニヤを駆け足で回ってみました。ジャフナ半島周辺からキリノッチ、バブニヤにかけてはスリランカ陸軍が各所に配置されていて、現在も「高度警戒地域」に指定されて事実上の軍の監視下にあります。
激戦の痕跡としては、街道沿いの古い家屋の多くに、弾痕を修復した跡がありました。それほど多くの人に話は聞けませんでしたが、やはり内戦は過去のことになりつつあります。LTTEに関しては、タミル人でもさまざまな意見があります。同組織は創設時から壊滅時までヴェルピライ・プラバカランがトップを務めましたが、実際には他にも有力な指導者が何人もいて、それぞれ“評判”が違うのが興味深かったです。
※【プラバカランは少年少女兵を大規模に徴集し、投降するなら自決せよと各兵士に青酸化合物入りのペンダントをかけさせていました。大規模な自爆テロ部隊「ブラックタイガース」を編制し、実際に中心都市コロンボなどに潜入させて自爆テロを多用しています。1991年にはインド軍介入への報復としてインドのラジブ・ガンジー元首相(ネルー初代首相の孫で、インディラ・ガンジー元首相の息子)を自爆テロで暗殺しています】
ただ、近年の調査報道をみると、表面的な少数民族の公民権的な政治問題は少ないものの、内戦中に戦火を避けて避難したタミル人にまだ郷里に帰還できていない人も多く残っているとのこと。上記した高度警戒地域では軍や警察の強制捜査も行なわれていて、数は多くないものの、拷問や強制失踪はまだあるということです。
(※上記地図はGoogleMapsより)
少数民族弾圧はまだあるが、徐々に薄れていく内戦の記憶
タミル人とシンハラ人の“分断”は今もあります。政府は明らかに全土のシンハラ圏化、脱ヒンズー教化を進めています。
互いに言語教育をしていることになってはいますが、言語体系は全然別のもので壁は高いです。とくに多数派のシンハラ人でタミル語ができる人はきわめて少ないようです。英語は、もともとイギリス植民地時代はタミル人サイドが優遇されて英語教育がなされていたとのことですが、現在では逆にシンハラ人のほうが教育機会で優位にあり、英語を解する人が格段に多いです。
他にも政治・経済活動全般にシンハラ人が優遇されているのは否めません。北部でも観光産業や主要大企業などの幹部職員は中央からシンハラ人が派遣されていることが多く、彼らは英語に堪能ですが、タミル語を解しません。両民族の断絶は歴史的なもので、そう簡単に解決しませんが、今後も政情不安の火種としてくすぶり続けることになるでしょう。
ジャフナ半島はもともと同胞であるタミル人が多く住むインドのタミル・ナードゥ州との交流が盛んで、ジャフナもスリランカの他の都市とは雰囲気がまったく違い、雑多な喧噪はインドそのものという感じです。
ジャフナ半島北部と対岸のインドを結ぶ海路は内戦の影響で1983年に閉鎖されていましたが、2023年に40年ぶりに一般のフェリー航路が再開されました。筆者がジャフナのゲストハウスで会ったインド人の女子学生もそのフェリーで来たとのこと。持病の治療目的でのジャフナ訪問とのことですが、「スリランカは物価が高い」とコボしていました。
スリランカはコロナ禍をきっかけに数年前から高いインフレをともなう未曾有の経済破綻で、2022年には大規模な市民デモでラジャパクサ大統領が辞任に追い込まれるという状況に陥りました。IMFの融資もあって経済は好転しましたが、それでも高い税率で物価は高騰し、国民生活に余裕はありません。タミル人地域で政治的な話を聞こうとしても、民族問題よりも経済政策への不満の声が多かったです。