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「勝負師として終わりだと…」阿部一二三のライバル柔道家・丸山城志郎の今【独占インタビュー】

金明昱スポーツライター
母校の天理大学・柔道場でインタビューに応じてくれた丸山城志郎(筆者撮影)

「綺麗事を言うつもりはないのですが、阿部(一二三)選手がいたからここまで強くなれたのは事実です。違うっていったら嘘になりますから」

 丸山城志郎は肩ひじ張ることもなく、柔和な表情を見せながらそう語った。2019、21年の柔道男子66キロ級の世界王者であるが、“五輪”とは無縁の選手でもある。最大の目標としていた東京五輪の日本代表を決める阿部一二三との“24分間の死闘”で敗れ、悔し涙を飲んだ。

 そうして迎えた2024年。23年5月の世界選手権以来、9カ月ぶりの復帰となった2月のグランドスラム・パリ大会では決勝まで進むも銀メダル。その後の動向は、ほとんど伝わっていない。

 表舞台から姿を消した今、どのように過ごしているか。長らく壁となって立ちはだかった宿敵阿部のこと、支えてくれた家族、新たな目標に向けて気持ちの整理はついたのか――。時の流れのなかで、今も柔道と向き合う丸山の本音に迫った。

「今は少し離れた状態から柔道を見ている」

――現在はどのような活動を中心にして、どのように過ごしていますか?

 今は少し離れた状態から柔道を見ながら、柔道をしている感覚です。ただ鍛え上げるという部分だけでなく、母校の天理大学で練習しながら、後輩たちにはどういうアドバイスをすれば上達するのかを考えたり、海外で柔道を教える機会も多いのですが、それがすごく勉強になっています。

――具体的にはどのような部分で学びがありますか?

 選手たちの柔道に対する考え方や練習の仕方を聞いたりして、自分の意見を押し付けても、それは自分にしか通らないことだなとか、ただ強くなることを考えるのではなく、いろんな側面がある。そういう気づきがたくさんあります。

――まずは今年1年を振り返ってもらいたいのですが、9カ月ぶりの復帰となった2月の柔道グランドスラム・パリ大会では決勝で敗れました。「初戦から苦戦した。すべての試合が厳しい戦いになった」と語っていました。どのような心境だったのでしょうか?

 パリ五輪の選考が終わったあとの試合で、正直に言えば「自分は何のためにやっているのか、何のために試合に出るのか」という精神状態でした。でも、体は万全に作り上げて現地入りして、コンディションも万全。ただ試合が近づくにつれて、「何のためにやっているんだろう」と思うようになってきて…。試合当日を迎えると、自分の中で燃え上がるものがなくて、気持ちが上がってこない。日頃の稽古や練習みたいな気持ちで試合をやっていましたね。本当に気力でなんとか戦っていた大会でした。

――ここで優勝すれば次につながるとは考えなかったですか?

 もちろん優勝していれば、今年5月の世界選手権には選ばれていたと思うのですが、仮にそうなったとしても僕は辞退したと思います。

今年2月のグランドスラム・パリで丸山(左)は決勝戦で敗れて銀メダルだった
今年2月のグランドスラム・パリで丸山(左)は決勝戦で敗れて銀メダルだった写真:ロイター/アフロ

「何のために世界選手権に出るのか」

――それくらい精神的に辛かった?

 世界選手権には4回出ているのですが、すべては五輪に出るために世界選手権で勝ちたいという気持ちでいましたから。それも世界選手権は2回制覇しているので、次の五輪につながるといってもまだ先の話ですから。何のための世界選手権かわからないし、五輪のためにやってきたと考えると燃えるものがなかった。

――こういう心境になったのは初めてですか?

 初めてですね。僕も19年に初めて世界選手権に出たときはチャンピオンになりたいという一心でしたから。いま考えると五輪を経験していないので、そこしか燃えるものがなかったんだなと。

――闘争心が消えるような自分に対して驚かなかったですか?

 そうですね。もう勝負師として終わりだという風には思っていました。引退までとは言わないでも、こういう気持ちで試合に出ている自分を許してしまっているのが、許せないというか…。これ以上、強くなりたいという欲が出てくるのかなと思いました。11月の講道館杯の欠場もケガが理由ですが、気持ちが乗らない部分も大きかったです。

――引退という言葉が出たので、一度でも考えたことはありましたか?

 2020年の東京五輪の代表選考の試合で、阿部選手に負けたあとは、「もうこれ以上何をしたらいいのか」という気持ちでした。

阿部選手に対して今だから言える「いないほうがよかった(笑)」

 日本柔道界における“史上初のワンマッチ決定戦”は今も語り草だ。東京五輪の男女14階級のうち、唯一五輪代表が決まっていない66キロ級で、宿命のライバルと言われる丸山と阿部が争った。どちらが出場しても金メダルと言われた注目の一戦。24分を超える死闘で、丸山は阿部に敗れた。

 すべてをかけて挑みながらも敗れたあとの悲壮感や喪失感を言葉で表現するのは難しいかもしれない。

――東京五輪出場を逃したあとはどのように気持ちを整理しましたか?

 まずはパリ五輪に向けてがんばりますと言っておくべきとは思いました。すると、少しずつ見えてくるものがあると信じていました。僕の場合は大野将平先輩(73キロ級16年リオ五輪、21年東京五輪金メダリスト)が現役だったので、一緒に練習しながら色々な話を聞いている間にエネルギーが湧いてきた感じです。

――ライバルと言われている阿部一二三選手に対しては、どのような感情を持っていましたか? 成長という意味では同じ階級にいてよかったですか?

 いや、いない方がよかったですよ(笑)。でも綺麗事を言うつもりはないんでけど、阿部選手いたからここまで強くなれたのは事実です。それはもう間違いないですね。それを違うって言ったら嘘になります。

――ライバル関係だから、さらに強くなれた?

 それはあります。毎日の練習でも阿部選手を想定しながらやってましたから。トレーニングをするときも、例えばバーベルを10回あげるなら、阿部選手は多分11回はあげているんだろうなと思ったら、僕は12回あげる。自分が決めたメニューが終わったら、「いや、あいつは多分もうちょいやってるだろうな」と思ってもっとやっていました。

――そういう日々の取り組みは、呪縛にとらわれているような感じがして、辛くも感じます。

 本当にそんな感じだったと思います。僕も正直、きついことはしたくない(笑)。ただシンプルに勝ちたいからやるんです。やりたくないけど、やらなきゃ勝てない。焦りもあったのだと思います。

――その姿を奥様はどのように見ていましたか?

 家でご飯を食べている時も、風呂に入っている時も阿部選手にどう勝つか考えていましたね。息子が2人いるのですが、妻から言われたのは、子どもにご飯をあげたり、風呂に入っているときもずっと無言の時が多かったらしいんです。阿部選手のことを考えていたから、本当にそうだったんだと思います。

「家庭と柔道はまったくの別物」

――現役を続けていく過程で、家族の支えも大きかったのでは?

よく結婚したあとに子どもも生まれて、より一層がんばれますねとかよく言われるのですが、自分のなかではそこまで大きく変わらないんです。

――それはどういう意味でしょうか?

 小さい頃から柔道しかしてこなかったので、負けたい試合は一つもなくて、勝ちたいというのはシンプルに自分の欲でしかないんです。子どもが生まれたから頑張れる、勝ちたいという人もいると思うのですが、僕は家族と柔道はまったく別物だと思っています。柔道に関していうと、子どものおかげとか、“子ども”を出すことは何か違うかなと思っていて、勝った、負けたをその子のせいにするような感じにしたくないんですよ。

――あくまでも柔道の世界での勝負事は自分自身との戦いということですね。

 勝てば応援してくれる人がいて、家族ももちろん喜んでくれる。僕もありがとうと言えるし、恩返ししたい気持ちはあります。ただ、柔道は対人競技なので、そこに余計な気持ちは持ち込まないようにしています。

――柔道をしていて楽しいと思ったことはありますか?

 僕の場合は、楽しみながら柔道ってできないんです。人がぶつかり合う力と力のぶつかり合いなので、決して楽しいとは思わないです。どちらかと言えばきつい競技ですから。「試合が楽しみです。楽しみながらやりたいです」という選手もいますが、そう聞くと僕は心の中では「嘘つけ」と思っています(笑)。

阿部は丸山の壁となって何度も立ちはだかった
阿部は丸山の壁となって何度も立ちはだかった写真:西村尚己/アフロスポーツ

楽しみよりも「負けるのが怖い」

――柔道界においてはトップ選手なので、強い相手と戦う楽しみみたいなものがあると思っていました。

 もう恐怖でしかないですよ。負けるのが怖い。

――それはずっと勝ち続けてきたからでしょうか?

 それもあると思います。柔道はやはり日本のレベルが高く、世界で勝つよりも国内で勝ち続ける方が難しい。負けたら次に選手が控えています。だから1回負けてしまうと、終わりとまではいかなくても、もう後がない状況になってくるんです。さらに2回、3回と負けると、もう終わりだなという雰囲気になってきます。

――それにしても丸山選手でも負けるのが怖いと思うことがあるとは驚きです。

 練習もなるべくならやりたくないし、さぼりたい。逃げたくなるときもあります。でも、勝つためにはやらないといけない。柔道って「柔よく剛を制す」と言いますよね。でも試合は戦いの場なので、言葉の表現が悪いですが、ある意味“殺し合い”のような場所。それくらい真剣勝負の側面が強いので、負けるのが怖いし、楽しむことは一切ないです。

――負けたらあとがないという恐怖感というのが正しいでしょうか?

 シンプルに負けたくない、負けず嫌いな部分があるのと、日本の柔道界は強い選手が次々と控えているので、負けたら次がないという恐怖感というのは間違っていないです。

――それだと追う立場のほうが心境的には楽ですね。

 その通りです。追われる立場になって精神的にきつかったのは19年に世界選手権で金メダルをとったあと。周囲の見る目が変わり、扱いも変わりましたから。体の調子はすごくいいけれど、自分の立場やポジションを守らないといけないという部分においては、メンタル的に苦しかったです。これから丸山の時代が来るんじゃないか、お前で(五輪は)決まりだという雰囲気は感じていました。でも、そうした雰囲気に流されないように、自分のことだけに集中して突き進もうと必死でした。

テレビ観戦のパリ五輪「悔しい気持ちで見ていた」

――パリ五輪の柔道は見ていましたか?

 家のテレビで見ていました。もちろん自分が出ていたらなという気持ちもあり、悔しい気持ちもありました。他の選手たちの階級も見ながらどういう心境で挑んでいるのかとか、表情を見ればわかるので、そういう見方で試合を見ていました。ただ、悔しい気持ちがやっぱり強かったですよ。

――五輪という舞台に立てていないことについて悔いはありますか?

 柔道はアマチュア競技なので、やはり五輪が最高峰の大会なんです。だからやっぱり、すべてだと思っています。僕はあそこで優勝して、自分の心技体のすべてを出して優勝して見てもらうことがすべてだと思っています。でも大野先輩は「五輪に出て、勝ったからって何も変わんねえよ」って言うんです。でも勝ったから言えることであって、僕からしたら出ていないし味わったことがないので分からないです。

――2028年のロサンゼルス五輪は「簡単に目指すとは言えない」と語っています。その気持ちに変化はありましたか?

 これが1年後とかなら気持ちを切り替えられると思うのですが、4年後というのはまた絶妙な年数ですよね。年齢や体のキレに関してはまったく問題ないんです。ハードなトレーニングもできます。ただ、いくら体が仕上がっていても気持ちがついてこなかったら難しい。だからあとは気持ちの部分です。

19年世界選手権決勝で見せた得意技の内股で技あり。初出場で金メダルを獲得した
19年世界選手権決勝で見せた得意技の内股で技あり。初出場で金メダルを獲得した写真:ロイター/アフロ

丸山城志郎にとって“柔道”、“阿部一二三”、“五輪”とは?

――現在は目標をどこに置いていますか?

 明確な目標と聞かれると、はっきりしたものはないんです。今は日本の子どもたちや海外で柔道を教えながら、俯瞰して見ているところです。

――教える側になってから学ぶことがたくさんあると話していましたね。

 最近、ものすごく感じるのは選手1人に対して、必ず合ったスタイルがあるということ。大学生に教えるにしても、今までは自分がやってきたことを強く押し付けていた部分があったのですが、100人いれば100通りある。それを客観的に見て言えるようにはなってきました。

――子どもには柔道をさせたいですか?

 させたくないです(笑)。柔道のきつさを知っているので、がんばるなら柔道以外でいいと思っています。でも子どもが決めることなので、スポーツじゃなくてもいい。僕も違う世界を知りたいという気持ちもあります。

――最後に3つについてお聞きしたいです。丸山選手にとって「五輪」、「阿部一二三」、「柔道」とは何でしょうか?

 五輪は今も“未知の世界”です。そして、阿部選手は「僕を変えてくれた存在」。柔道に対する考え方、練習への取り組み方もそうですし、勝ちたい気持ち、超えないといけない存在でしたから。一番難しい答えですが…。3歳からやってきた“丸山城志郎”を作り上げてくれた競技です。

 最後の質問を終えたあとだった。何かを考えていた丸山は、自らこんな話を切り出した

「僕が高校生ぐらいの時に50歳くらいの柔道家がいたんです。名前忘れてしまったんですけど、『この人、昔強かったんだよ』って当時の先生が言うんですよ。高校生のときの自分はイケイケで、相手はおじさんだし、勝てると思っていた。実際に組んだら、ボッコボコに投げられたんです。それが忘れられなくて、かっこよかった。僕もそんな歳になっても『あいつ、いつまでつええんだよ』って言われてみたい。将来の目標ではないですが、そんな柔道家でありたい」

 今は競技からは少し距離を置いている丸山だが、この言葉からも“柔道”から離れることはないのだろう。4年後のロス五輪への挑戦を明言する日が来るかはわからない。ライバルである阿部一二三との再戦もないとは言えない。仮にそうなったとき、また“勝負師”となって戻ってきてほしい――。多くの人たちはそれを望んでいるはずだ。

現在は大学生への指導や子どもたちの柔道教室、海外での柔道セミナーにも参加している(筆者撮影)
現在は大学生への指導や子どもたちの柔道教室、海外での柔道セミナーにも参加している(筆者撮影)

■丸山城志郎(まるやま・じょうしろう)

1993年8月11日生まれ、宮崎県出身。3歳から柔道を始める。中学、高校時代に頭角をあらわし、天理大学・柔道部で腕を磨いた。国際大会のグランドスラムでは2018年(大阪)、19年(デュッセルドルフ)、22年(東京)に金メダルを獲得。19年(東京)と21年(ブタペスト)の世界大会も制覇した。現在は天理大学の柔道部での指導のほか、各地域の柔道教室参加、欧米など海外で柔道セミナーも積極的に行っている。得意技は内股。ミキハウス所属。

スポーツライター

1977年7月27日生。大阪府出身の在日コリアン3世。朝鮮新報記者時代に社会、スポーツ、平壌での取材など幅広い分野で執筆。その後、編プロなどを経てフリーに。サッカー北朝鮮代表が2010年南アフリカW杯出場を決めたあと、代表チームと関係者を日本のメディアとして初めて平壌で取材することに成功し『Number』に寄稿。11年からは女子プロゴルフトーナメントの取材も開始し、日韓の女子プロと親交を深める。現在はJリーグ、ACL、代表戦と女子ゴルフを中心に週刊誌、専門誌、スポーツ専門サイトなど多媒体に執筆中。

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