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“テレビが報じない”仙台のレジェンド・梁勇基の引退試合…2人の北朝鮮代表OBが出場した深いワケ

金明昱スポーツライター
会見で引退試合を振り返る梁勇基氏(筆者撮影)

 日曜日の朝。テレビをつけるとTBSの報道番組「サンデーモーニング」のスポーツコーナーが目に飛び込んできた。サッカーのニュースで扱われたのは“引退試合”。14日に行われた元日本代表の中村憲剛と槙野智章の2試合が紹介されたのだが、もう一つ、忘れてはいないか。個人的な“期待”はあっさりと裏切られた。

 元朝鮮民主主義人民共和国代表(以下、北朝鮮代表)でベガルタ仙台のレジェンド・梁勇基の引退試合も同日開催だったが、報じられることはなかった。中村、槙野はともに日本を代表する名選手だけに、ニュースになるのは当然といえば当然だ。しかし、日本で生まれてサッカーを始めた在日コリアンJリーガーである梁勇基が、仙台ひいてはJリーグ、日本サッカー界に残した実績や功績を考えると、同等に扱ってもいいのではないか。

 世間の人がスマホを手に目にすることも多い「Yahoo!ニュース」でも、「槙野氏引退試合 妻とゴールパフォ」、「憲剛氏引退試合 沙保里さん大暴れ」とのタイトルで2つの引退試合がトピックスとして取り上げられていた。

 あえて梁勇基の引退試合と比較する必要はないし、地元仙台では大々的に報じられている。それで満足してもいいのだが、現場で目の前で起こっていた感動のシーンが、サッカーファン以外の人たちにも共有されてもいいのではと感じたのは、筆者だけだろうか。

 多少強引な解釈をするならば、梁勇基は“過小評価”されてはいないだろうか――。現場取材で目の前に広がる光景を見ながら、朝からそんな思いにかられた。

圧巻だったサポーターと選手一体の「リャンダンス」

 試合はJ1で2012年にチーム最高順位の2位の成績を残した「ベガルタ仙台レジェンズ」と、友人たちが集まった「梁勇基フレンズ」のチームに分かれ対戦。

 引退後はクラブコーディネーターとして東奔西走しているが、現役生活から離れたとはいえ、この日の試合のために日々の練習やトレーニングも怠らなかったという。

スタジアム入口には梁勇基の写真がデカデカと掲げられていた(筆者撮影)
スタジアム入口には梁勇基の写真がデカデカと掲げられていた(筆者撮影)

 両チームともに聖地のユアテックスタジアム仙台に駆けつけた1万1086人のサポーターの前で、恥ずかしい姿は見せられないというプロサッカー選手としてのプライドもある。

 前半は引退試合とは思えないぶつかり合いだったが、親友でもあるGK林卓人にPKを止められてやり直したりするシーンが笑いを誘い、チームメイトのおぜん立てで何度もペナルティエリア外から得意とするFKを蹴るシーンも演出。実際にゴールを決めたあとは、背番号「10」の人文字のゴールパフォーマンスでねぎらうなどして盛り上がった。

 結果は4-4だが、梁は両チーム合わせて4得点を決めて有終の美を飾った。

 圧巻だったのは試合後のサポーターたちの「リャンダンス」。サポーター全員が肩を組み、何度も左右に往復して会場を揺らすと、最後はピッチにいた両チームの選手たちも一体となって「梁勇基 ゲットゴール 梁勇基!」とチャントを叫ぶシーンは感動の瞬間だった。

 やはり梁勇基にとってもこの光景は特別だ。

「ピッチから左右に揺れる姿で本当にたくさん励まされた。苦しいシーンや体力的につらい時間帯でも本当に勇気を頂いた。すごくいろんな記憶がよみがえる瞬間で、改めて感謝の気持ちでいっぱいです」

 “ベガルタの太陽”――。仙台で梁はそう呼ばれている。

 現役生活20年。ベガルタ仙台では18年間プレーしJ1通算297試合29得点、J2通算280試合47得点を決め、昨季限りで現役引退した。J2での145試合の連続出場記録はいまも破られていない。J1昇格など苦しい時期と輝かしい時代を牽引してきた仙台のヒーローの実績と功績。まさしく“ベガルタの太陽”と呼ばれる所以だ。

北朝鮮代表OBの安英学と李漢宰も引退試合に参加

 今回の引退試合のメンバーは、梁と仙台にゆかりのある戦友ばかりだったが、それとはまったく関係のない在日コリアン選手もいた。新潟、柏、名古屋などでプレーした安英学(アン・ヨンハ)と広島、岐阜、町田などでプレーした李漢宰(リ・ハンジェ)の北朝鮮代表OBの2人だ。

 梁は試合後の会見でこんなことを語っていた。

「自分のプロキャリアだけではなく、学生時代から意識して切磋琢磨しあった李漢宰、安英学さんと一緒にプレーできたのは自分の中で宝物ですし、本当に贅沢な90分だったなと思います」

 個別に名前を出すほど、梁にとっては特別な存在。ちなみに元北朝鮮代表の鄭大世も、本来ならば大先輩である梁の引退試合に参加するつもりだった。しかしプロデビューした川崎フロンターレでは、チームメイトだった先輩の中村憲剛の引退試合と日にちがかぶっていたこともあり、仙台には来ることができなかった。

 引退セレモニーで鄭大世はビデオメッセージに登場。「今日はこの場に行けなかったこと本当に申し訳ございません。勇基ヒョンニム(=先輩)は小学生の時から有名で、大阪にすさまじい天才がいるという話を聞きながら、実際に対戦することはなかったのですが、代表でW杯の時に一緒に活動させていただきました。こんなに普段おっとりした性格なのに、魔法使いのような、見ている人の度肝を抜かすような圧倒的なプレーができるヒョンニムと一緒に活動できたことは今でも誇りに思っています。長い現役生活、本当にお疲れ様でした」との言葉を送っていた。

北朝鮮代表として日本代表とも戦った安英学
北朝鮮代表として日本代表とも戦った安英学写真:YUTAKA/アフロスポーツ

梁のような朝鮮学校出身のトップJリーガーは出にくい?

 朝鮮学校出身の在日コリアンJリーガーで、こんなにも一つのクラブに愛された選手はいない、と言い切っていいだろう。それに今後、このような選手が出てくるか、と聞かれれば答えるのが難しい。

 というのも、梁のようにJのトップレベルでプレーする朝鮮学校出身の在日コリアン選手は生まれにくいのが現状だ。そもそも日本の人口減により、自然と朝鮮学校の学生数は減少傾向にあり、学校の統廃合が続いている。数の少ないなかで、サッカーを選択する子どもも限られてくる。

 梁の母校でもある大阪朝鮮中高級学校は、今年移転が決まったばかり。梁が高校時代、仲間たちとインターハイや全国選手権を目指し、ボールを蹴った土のグラウンドも今はもうない。そう思うと寂しいものだが、それでも今も大阪朝鮮高サッカー部は存在するし、部員は少ないながらも練習に励み、将来は梁勇基のようにJリーグ入りを夢見る子も少なくない。

 日本各地にある朝鮮学校では自治体からの補助金打ち切りなども続き、運営費の捻出や設備の老朽化など問題は山積している。そして筆者も在日コリアンであり、子を持つ親でもあるが、朝鮮学校に送る各家庭においても“教育”に対する価値観はさらに多様化していると感じる。

 それでも今も朝鮮学校には学生がいて、プロサッカー選手を夢見てボールを蹴る少年、少女たちがいるという現実がある。

なぜ梁勇基は仙台サポーターに愛されるのか

 安英学は、約半年前から引退試合のオファーをもらいスケジュールを空けたという。代表で共に切磋琢磨した仲だが、まさか仙台のユアスタで一緒にリャンダンスを踊ることになるとは思っていなかっただろう。梁の姿を見て「本当に誇らしい」と感慨深げだった。

「同じ代表の仲間で、ウリハッキョ(朝鮮学校)を卒業した在日同胞として、こんなに愛されているJリーグのクラブにヨンギがいることが本当に誇らしいです。自慢の後輩ですし、こういう姿は本当にたくさんの後輩たちに見てもらいたいなと思いました」

 なぜこれほど梁は仙台に愛されるのか。その問いにこう答えてくれた。

「ヨンギはどちらかというと目立ちたくない性格だと思うのですが、今ではベガルタのヒーローと言われるくらいの存在になりました。ただ、サッカーが上手いだけじゃなく、彼の人間性もあります。それに、苦しい時に逃げなかった強さと真心。それが仙台のサポーターの方々に届いたのだと思います」

 北朝鮮代表が44年ぶりに出場した2010年南アフリカW杯には、メンバー入りは叶わなかったが「当時、代表の中では一番うまかった。周りもそれを認めていた」と語る。

元北朝鮮代表の李漢宰(写真右)も日本代表との対戦経験がある
元北朝鮮代表の李漢宰(写真右)も日本代表との対戦経験がある写真:ロイター/アフロ

 普段はあまり見せないという梁の負けず嫌いなエピソードも教えてくれた。

「当時の代表チームでは守備的な戦術をとっていたので、ヨンギが試合に出られないときもありました。悔しい姿も見えたりして、誰よりも負けず嫌いなんだなというのは側で感じていました」

 安は自身が運営するサッカースクールのほか、神奈川朝鮮中高サッカー部での指導、全国の朝鮮学校での講演活動やサッカー教室など後進の指導を積極的に行っている。「ヨンギのような選手をまた後輩たちの中から育てたいし、出てくるのを見てみたい」。

 在日の子どもたちに夢を与える活動を続ける安の背中を見てきた梁が、尊敬する先輩を引退試合に呼んだのはそうした背景がある。

元日本代表の柳沢敦が語った“梁勇基”とは

 梁とは学年が1つ下になる李漢宰も「小学生の頃から抜群にサッカーがうまくて、学生時代もプロになっても常に意識する存在でした」と語る。

 代表での面白いエピソードを一つ教えてくれた。「海南島で朝鮮代表の合宿に2人で参加したときのこと。冬で寒い中、練習着が赤白と1セットずつしか渡されず、しかも洗濯機もないので、手洗いで外に乾かすんです。でもまったく乾かなくて、半乾きの状態で練習に参加していたのは一生の思い出です」と笑っていた。

 仙台のレジェンドがユニフォームを手洗いで洗濯する――。その姿を想像しただけで、クスっと笑えるが、当時から文句ひとつ言わず、黙々と与えられた環境のなかでどのようにサッカーに取り組むべきかを常に考えていたのだと思う。

 決してエリートではなかった梁が、ここまで来るには苦労の連続だったのは想像に難くない。だからこそ、彼の偉大さがより鮮明に映る。

 引退セレモニーのビデオメッセージで元日本代表の柳沢敦がこんなことを語っていた。

「梁との思い出というか、自分が仙台に行ってからあの存在感というのは、絶大なものがあって、選手からもサポーターからも愛される選手だなと思いながら見ていました。自分は活かされるプレーヤーなので梁だったり、鹿島アントラーズで言えば(元日本代表MF)小笠原満男だったり、本当に似たような匂いを感じていて、梁がボールを持ったときにはどう動くのかを常に考えていました。おかげで4年間、すばらしい時間を過ごすことができましたし、一緒にプレーできた時間は自分のなかでかけがえのないものとなっています」

2012年開催の東日本大震災の復興支援チャリティーマッチ。当時仙台の監督を務めた手倉森誠氏、チームメイトだった梁と柳沢。小笠原の姿も
2012年開催の東日本大震災の復興支援チャリティーマッチ。当時仙台の監督を務めた手倉森誠氏、チームメイトだった梁と柳沢。小笠原の姿も写真:Motoo Naka/アフロ

梁は日本でいうカズであり小笠原満男

 例えが正しいかは分からないが、在日コリアンサッカー界では、梁は日本でいうカズ(三浦知良)のような存在と言っていいと思う。それに、柳沢が梁のプレースタイルを小笠原に例えたのは、それだけ梁が視野の広さとテクニックを備えたJリーグを代表するMFだったということだ。

 テレビ向きの派手な言動やパフォーマンスはなくても、背中で見せてきた。引退セレモニーで長男が読んだ手紙の内容を聞きながら男泣きした姿が、今も鮮明に思い浮かぶ。家族の話をするのはあまり得意でない印象だが、最後は妻へのねぎらいの言葉も送った。

「上手く行かない時も一緒に共有して分かち合ってきた存在。自分のサポートや子育てにも手いっぱいで制限されていたと思います。これからは自分のやりたいことを楽しんでもらえることがあったら、どんどんやってもらいたいです」

 恥ずかしそうにそう語る梁の笑顔がまた微笑ましい。多くのチームメイト、サポーターに愛され、家族を大切にしてきた姿がこの引退試合に凝縮されていた。

 これからも梁は永遠に“ベガルタの太陽”だろう。それと同時に朝鮮学校に通うサッカー少年、少女たちから見ても偉大な存在であり、ヒーローであることも多くの日本人に知ってもらいたい。

スポーツライター

1977年7月27日生。大阪府出身の在日コリアン3世。朝鮮新報記者時代に社会、スポーツ、平壌での取材など幅広い分野で執筆。その後、編プロなどを経てフリーに。サッカー北朝鮮代表が2010年南アフリカW杯出場を決めたあと、代表チームと関係者を日本のメディアとして初めて平壌で取材することに成功し『Number』に寄稿。11年からは女子プロゴルフトーナメントの取材も開始し、日韓の女子プロと親交を深める。現在はJリーグ、ACL、代表戦と女子ゴルフを中心に週刊誌、専門誌、スポーツ専門サイトなど多媒体に執筆中。

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