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当初、怒涛の勢いで、徳川家康を相手に戦いを有利に進めていた羽柴秀吉

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
羽柴(豊臣)秀吉。(提供:アフロ)

 今回の大河ドラマ「どうする家康」は、羽柴秀吉の敗北が強調された節があるが、実際にはそうではなかった。当初、羽柴秀吉は怒涛の勢いで、戦いを有利に進めていた。その辺りを詳しく取り上げることにしよう。

 長久手の戦いが開始したのは、天正12年(1584)4月6日のことである。以下、4月8日に羽柴秀吉が丹羽長秀に宛てた書状で、詳しい戦況を確認することにしよう(「山本正之助氏所蔵文書」)。

 秀吉軍は、岩崎山、内窪、青塚、田中郷、二重堀(以上、犬山市、小牧市)に陣を置き、徳川家康の陣がある小牧と対峙した。

 4月6日、池田恒興、森長可、三好信吉(のちの豊臣秀次。秀吉の甥)、堀秀政らが2万5千の軍勢を率いて小幡城(名古屋市守山区)の二の丸まで攻め込み、敵の首を百余討ち取った。幸先の良いスタートである。

 そして、羽柴勢は竜泉寺(名古屋市守山区)に砦を拵え、柏井(愛知県春日井市)、大草(同小牧市)に砦を普請すると、小幡城と森山ほかはことごとく放火し、三河に攻め込む手はずを整えた。

 さらに、秀吉は九鬼氏に命じて、舟を三河に向かわせるよう指示するなど、怒涛の勢いで家康の本国に攻め込もうと計画していたのである。

 秀吉は同じ頃に、伊勢、和泉方面でも戦っていた。伊勢の滝川雄利(織田信雄の家臣)は秀吉に敵対すると、松ヶ島城(三重県松阪市)に籠城し、家康からの支援を受けていた。しかし、劣勢は否めなかった。

 秀吉の書状によると、雄利が助命を願ってきたが、家康を討ち取れば用はないので、命を助けて城を受け取ることを申し遣わしたという。松ヶ島城には、近いうちに2万余の軍勢が着陣する計画があると書かれているので、秀吉は北伊勢でも有利に戦いを進めていたのである。

 同じく秀吉は紀伊の根来寺(和歌山県岩出市)、雑賀衆(和歌山市)とも対立しており、和泉で交戦していた。信長の時代、根来寺は協力的な姿勢を見せていたが、このときは秀吉に敵対していた。

 和泉には備前衆(宇喜多秀家の配下の者)を1万も送り込み、すでに岸和田(大阪府岸和田市)、大坂に達していた。そのうち5・6千人の軍勢を最前線に遣わし、すでに着陣したという。

 小牧・長久手の戦いといえば、羽柴軍と織田・徳川連合軍の対決というイメージが強いが、実際の戦いは広範にわたっていた。それぞれが味方になるよう諸勢力に調略を行い、各地で局地戦が展開されたのである。

 秀吉は自軍の圧倒的な優勢を伝えており、それは毛利輝元に対する書状も同じ内容だった。吉田兼見は使者を秀吉のもとに送り、対陣の様子の絵図を持ち帰らせた(『兼見卿記』)。

 兼見はその絵図を正親町天皇のもとに持参し、戦況の報告を行った。朝廷にとっても、2人の戦いは決して見逃すことができなかったのである。

 こうして秀吉は有利に戦いを進めたが、4月9日になると、戦況は大きく変化した。その点については、改めて明日に取り上げることにしよう。

主要参考文献

渡邊大門『清須会議 秀吉天下取りのスイッチはいつ入ったのか?』(朝日新書、2020年)

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『蔦屋重三郎と江戸メディア史』星海社新書『播磨・但馬・丹波・摂津・淡路の戦国史』法律文化社、『戦国大名の家中抗争』星海社新書、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房など多数。

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