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「“卓球の鬼”から本来の自分に戻った」ロンドン五輪銀メダリスト・平野早矢香が語る現役時代と卓球界

金明昱スポーツライター
ロンドン五輪銀メダリストの平野早矢香。現役時代を赤裸々に語った(撮影・倉増崇史)

 “泣き虫愛ちゃん”こと福原愛、チョレイの張本智和、ハリケーンの平野美宇……。名だたる選手たちによってけん引されてきた日本卓球界。現在のその高い人気の火付け役となった一人が、平野早矢香だ。

 日本卓球が男女通じて初めて五輪でメダルを獲得した2012年のロンドン五輪、福原と石川佳純と共に女子団体に出場した舞台に、平野はいた。

 鬼気迫るプレー姿から“卓球の鬼”とまで呼ばれ、全日本選手権で5回優勝という実績を持ちながら、「レベルの低い決勝戦」「まぐれでの優勝」といった声もあった平野。引退から約6年、不遇といえる時期もあった現役時代を、どう振り返るのだろうか。プライベートでは昨年1月に結婚し、インタビュー中にはのろける姿も見せた彼女の今に迫る。

■「まぐれ」と言われた全日本優勝

(撮影・倉増崇史)
(撮影・倉増崇史)

「かなりびっくりした記憶があります(笑)。全日本で優勝しても褒めてもらえないんだなって」

 平野は穏やかな表情で話し始めた。初めて全日本選手権で優勝したのは2004年だ。

「優勝の目標を1年くらい前から立てて一生懸命やってきて。決勝戦が藤井寛子さんとの対戦だったんですけど、こんな私が優勝できたんだからみんなにめっちゃ褒めてもらえると思っていました。優勝したら人生バラ色、みたいなイメージを勝手に持っていた。でも、周囲は『え?平野が優勝?』という反応でした。まぐれだ、という見方をされてしまう」

 自分は期待された選手ではなかったと実感した。

「でも、だからといって自分の方向性がぶれるわけではなかったんです。別にみんなに見てもらうためにやっているわけではない。勝ちたい、挑戦したいという気持ちでやっていましたから」

 そんな平野の「挑戦」が、日本卓球に快挙をもたらしたのがロンドン五輪だった。

2012年ロンドン五輪卓球 女子団体(写真:Enrico Calderoni/アフロスポーツ)
2012年ロンドン五輪卓球 女子団体(写真:Enrico Calderoni/アフロスポーツ)

 2012年ロンドン五輪の女子団体で、平野は福原・石川と共に日本に初の銀メダルをもたらした。卓球界に新たな歴史の一ページを刻んだわけだが、「現在の卓球人気のパイオニアですね」と伝えると、首を横に振った。

「当時は、どちらかというと勝ちたい、強くなりたいという気持ちで精一杯でした。もちろん代表として出たときには、日本を背負っているという感覚はありましたけど、日本の歴史を変えるとか、そんな大きなことをできる人間とは思っていなかった。それにチームには福原愛ちゃんというアイドル的な存在がいて、東京五輪でも活躍した石川佳純ちゃんもいました。才能あふれる選手たちがいて、注目度も高かった。そっちに関心が逸れたのも個人的には重圧を避けられたので、助かった部分もあります」

 ロンドン五輪では最年長でキャプテン。ただ、どちらかというと注目されていたのは福原と石川だった。2人は連日メディアに追われながらも、そつなく対応していたが、その姿に平野は感心しきりだったという。

「特に愛ちゃんは小さい頃から、どこに行ってもテレビカメラがある中で試合をしていてすごいなって思っていました。私だったら途中でやめちゃうだろうな、真似できないなって」

 一方で平野も全日本選手権で5度チャンピオンになっている。クローズアップしてほしいという欲がないわけではなかった。

「前に出て行きたいという感覚よりも、全日本選手権で優勝しているのに名前とかプレーぐらいはもっと取り上げてくれてもいいのになとは思っていました」

■「卓球の鬼」でも実はびびり

 現役時代は勝っても取り上げられないことを少し悲しんでいた部分もあったが、実は平野にも立派な愛称がある。“卓球の鬼”というネーミングだ。

 平野は試合中、得点すれば気迫あふれるガッツポーズが飛び出し、その表情には鬼気迫るものがあった。

「別に顔を意識していたわけじゃないんです。本当に一生懸命、とにかく自分のペースで卓球していただけなんです」

2014年 仁川アジア大会卓球 女子団体 準決勝(写真:長田洋平/アフロスポーツ)
2014年 仁川アジア大会卓球 女子団体 準決勝(写真:長田洋平/アフロスポーツ)

 そんな姿から“卓球の鬼”と呼ばれるようになったのは、2008年 の世界選手権広州大会の時だった。

「日本に帰ってきて、テレビ局の人から『平野さんのことを今回、鬼と呼ばせていただきました。すみません』と言われて。もうメディアに出ちゃったので、謝られても遅いですよね(笑)。みんなかわいいニックネームなのに、ええ、鬼!?みたいな感じでびっくりしました。でも今思うと、それで覚えてくれている方がいるんです。あの怖い顔をした何さんだっけ?平野さんね!って。家族もおもしろがって、いろんな式典で『鬼の母の平野です』とか自己紹介してネタにしていましたし、記憶に残ることができているなら良かったです」

「“鬼”という印象からか、メンタルも強いイメージを持たれているんです。でも、実はすごくびびりだし、試合前とかは何歳になっても練習場で泣きわめいていました。まわりはみんな、また平野が泣いているよみたいな(笑)。自分のメンタルが強いとは思わないですが、目標に向かってこつこつやっていくというところは、他の選手と比べると苦にしなかったかなとは思います」

■メダルはスタンダードに、時代は変わった

(撮影・倉増崇史)
(撮影・倉増崇史)

 ロンドン五輪で団体銀メダルを獲得したのが27歳。それから4年後のリオ五輪を目指したが、代表には入れなかった。福原、石川、そして伊藤美誠がリオ五輪への出場を決定し、平野は30歳になっていた。そこから東京五輪を目指すのは、体力的に厳しい。だが、諦めきれない自分もいた。

 そして2016年の春、平野は31歳で選手生活に終止符を打つ決断をする。決心するまでに時間はかかったが、「どのような世界に身を置きたいのか」という答えが出たあとは、すんなりと身を引くことができたという。

「何歳まででも、自分の気持ちさえあれば卓球はできるんです。ただ私は卓球を続けることではなく、勝負する卓球に魅力を感じていました。当時の私にとっては世界で戦うことが勝負。自分が挑戦し心が燃える大会はやっぱり五輪だと。五輪を諦め、他の大会に目を向けて強化をする気持ちにはどうしてもなれなかったんですね 」

 五輪で戦い続けたい欲が尽きないのは、常にトップレベルで戦い続けてきた証。だが、世代交代は確実に進んでいた。

「31歳から35歳という年齢の4年間を五輪のために懸けることができるのか、てんびんに掛けたんです。挑戦したら可能性はゼロではない。でも挑戦したとしても、代表の切符を手に入れられるチャンスは少ない。そこに懸けることはできずに諦めました」

 昨年の東京五輪には石川佳純、伊藤美誠、平野美宇が出場。伊藤は女子シングルスで初の銅メダルを獲得した。躍動する若い世代を見ながら、平野は思うことがある。

(撮影・倉増崇史)
(撮影・倉増崇史)

「伊藤美誠ちゃんや平野美宇ちゃんの卓球を見ていると、これまで私が経験してきた常識では考えられないスタイルなんです。私は型にはめた卓球で、考え方も基本はこういうものと考えるタイプ。でも、型を突き抜けていく人は、違う発想に果敢に挑戦して、中国への勝ち方を見つけていくのだと期待しています。今の小学生たちに目標を聞くと、本当に五輪で金メダルを取ると言うんです。もうメダルを取ること自体はスタンダードになりました。時代は変わったなと感じます」

 しみじみとそう語る平野の表情からは、自身がメダルを獲得することで夢を与えた自負が、少し見え隠れしていた。

■“卓球の鬼”から本来の自分に戻りました

 プライベートでは、昨年1月に結婚。「本当にもらってくれる人がいてよかった。その一言に尽きます」と冗談めかすが、とても幸せそうだ。

「一人暮らしが長かったので、人と一緒に生活できるかという不安もありましたが、意外に楽しく、私は安心感が増しました。ご飯を食べ終えて、2人でドラマを見ながらお茶を飲んでいると、“鬼”と言われて卓球ボールとにらめっこしていた私が今こんな生活しているんだ、という現実にちょっと笑ってしまいます」

 おのろけ話をする彼女はもう“卓球の鬼”ではなくなっていた。だからあえて聞いた。「今の平野さんは何になりましたか?」と。平野は少し考えてこう答えた。

「普通になりました。おそらく本来の自分に戻りました」

 平野はその言葉の意味を教えてくれた。

「選手時代は勝たなきゃとか、目標を達成しなきゃとか、そういう感覚が常にあったので、今のほうが自然体です。今思うのは、もう少し自分に対して気持ちの面で余白を作ってあげたらよかった。そうすればもっと伸び伸びと卓球ができていたのかもしれません」

 “たら・れば”の話を始めればきりがない。それでも人生の岐路に立たされた節目で、平野は常にベストの選択をしてきたに違いない。鬼でも自然体でも、どちらも素の彼女だと思う。

 そしてロンドン五輪での団体銀メダル。それは卓球少年、少女たちに夢を与えた大きな出来事だった。卓球界に歴史の一ページを刻んだ平野の功績は、これからも色褪せることはない。

(撮影・倉増崇史)
(撮影・倉増崇史)

■平野早矢香(ひらの・さやか)

1985年3月24日生まれ、栃木県出身。5歳の時に卓球を始める。仙台育英学園秀光中学校、仙台育英学園高等学校に進学し、卒業後はミキハウスに入社。18歳の時に、全日本選手権・女子シングルス初優勝、その後通算で5度日本一を飾る。世界選手権では、2001年の大阪大会から14回連続の出場を果たした。オリンピックでは、2012年のロンドンにて、福原愛・石川佳純選手と共に日本卓球界初のメダルとなる、女子団体銀メダルを獲得。2016年4月に現役を引退し、現在はミキハウススポーツクラブアドバイザーとして後進の育成に携わる一方、卓球の解説や講演、スポーツキャスターなどとしても広く活躍中。

【この記事は、Yahoo!ニュース個人編集部とオーサーが内容に関して共同で企画し、オーサーが執筆したものです】

スポーツライター

1977年7月27日生。大阪府出身の在日コリアン3世。朝鮮新報記者時代に社会、スポーツ、平壌での取材など幅広い分野で執筆。その後、編プロなどを経てフリーに。サッカー北朝鮮代表が2010年南アフリカW杯出場を決めたあと、代表チームと関係者を日本のメディアとして初めて平壌で取材することに成功し『Number』に寄稿。11年からは女子プロゴルフトーナメントの取材も開始し、日韓の女子プロと親交を深める。現在はJリーグ、ACL、代表戦と女子ゴルフを中心に週刊誌、専門誌、スポーツ専門サイトなど多媒体に執筆中。

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