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まさか、こんなはずじゃなかった。島流しになった3人の天皇

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
後醍醐天皇の流刑地とされる黒木御所跡。(写真:イメージマート)

 年度末を迎えて、新年度の準備が忙しい時期である。昇進、昇格を期待していたら、縁もゆかりもない地方への赴任を打診された人もあろう。地方が悪いわけではないが、かつて島流しになった天皇(上皇含む)がいるので、そのうち3人を紹介することにしよう。

◎後鳥羽上皇(1180~1239)

 承久3年(1221)、後鳥羽上皇は、鎌倉幕府の執権である北条義時追討の院宣を発給し、畿内近国の武士を集めて挙兵した。しかし、幕府はひるむことなく、大軍を京都に送り込み、朝廷に圧倒的な勝利を収めたのである。その結果、後鳥羽上皇は隠岐島(島根県海士町)に流罪となった。

 流罪になる直前、後鳥羽上皇は出家して法皇となった。隠岐における後鳥羽法皇の生活は詳しくわかっていないが、自らの撰による『隠岐本 新古今集』を完成させた。文暦2年(1235)、摂政の九条道家は北条泰時に後鳥羽法皇の帰洛を提案したが、拒否されたという。

◎順徳天皇(1197~1242)

 承久3年(1221)、後鳥羽上皇は鎌倉幕府に兵を起こしたが、子の順徳天皇のほうが倒幕の思いが強かったという。挙兵前、順徳天皇は子の懐成親王(仲恭天皇)に譲位した。しかし、戦いの結果は先述のとおり、朝廷は大敗北を喫し、順徳天皇は佐渡島(新潟県佐渡市)に流されることになった。

 順徳天皇の佐渡での生活については、不明な点が多い。しかし、有職故実に精通しており、歌論を集成した『八雲御抄』を著した人物なので、和歌を詠んでいたのは事実である。貞永元年(1232)には、家集『順徳院御百首』が編纂された。とはいえ、幕府の目を憚って勅撰集には、作品が採られなかった。

◎後醍醐天皇(1288~1339)

 後醍醐天皇は正中元年(1324)で鎌倉幕府打倒を試みたが、失敗に終わった。元弘元年(1331)にも倒幕を計画したが、密告により失敗した。後醍醐天皇は笠置(京都府笠置町)に立て籠もり抵抗したが、ついに捕らえられた。翌年、後鳥羽上皇と同じく、隠岐島(島根県西ノ島町)に流されたのである。

 しかし、後醍醐天皇の倒幕の意志は強く、決して諦めることがなかった。やがて、国内で倒幕の気運が高まると、元弘3年(正慶元年/1333年)に隠岐島を脱出し、名和長年の協力もあって帰洛に成功した。その後、悲願の倒幕を果し、建武の新政を行い、建武政権を樹立したのである。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『蔦屋重三郎と江戸メディア史』星海社新書『播磨・但馬・丹波・摂津・淡路の戦国史』法律文化社、『戦国大名の家中抗争』星海社新書、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房など多数。

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