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【戦国こぼれ話】自民党は誰が天下を取るのか!?織田信長が用いた「天下」の意味とは!?

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
織田信長のイラスト。本当に信長は、日本全国の統一を目論んだのか?(提供:アフロ)

■今も昔も重要な天下取り

 自民党総裁選もだんだんヒートアップ。誰が天下を取るのか、興味津々である。ところで、われわれは「天下」を日本全国と解し、「天下統一」を日本全国の統一と考えている。現在、大河ドラマ「麒麟がくる」が放映されているが、登場する織田信長の「天下統一」も同様に考えている人がいるかもしれない。

 しかし、最近では研究が進み、信長の時代の「天下」は、日本全国を意味しないと言われている。では、「天下」とはどの範囲を指すのだろうか?

■そもそもの「天下」の意味とは

 そもそも「天下」とは、古代中国で誕生した世界観を表現する言葉で、天命を受けた天子が「天の下」を支配するという考え方をあらわしている。

 もう少し具体的に言うと、「天下」とは至上の人格神「天」が統治する全世界のことを意味する。加えて、天子となった有徳の為政者が天命を受け、「天」に代わって支配する世界をも示した。その世界を「王土」という。この場合、有徳の為政者つまり「徳行の優れた政治家」ということがポイントだ。

 しかし、撫民仁政を忘れた不徳の天子が登場し、悪政を行った場合はどうなるのか。そのときは天命が革(あらた)まり新たな天子があらわれ、再び天下的な世界が編成されるといわれている。これを「易姓革命論」という。つまり、悪い政治を行った為政者は、放逐されても仕方がないということだ。

 日本において「天下」という言葉は、5世紀頃から確認することができる。埼玉県行田市の稲荷山古墳から出土した金錯銘鉄剣にも、熊本県和水町の江田船山古墳から出土した銀錯銘大刀にも「治天下」の語を見ることができる。おそらく、この頃までに「天下」という概念が日本に伝わっていたと考えられる。

■中世以降の「天下」の意味

 中世以降になると、「天下」の意味は少しずつ変化を遂げる。古代では朝廷が日本を支配していたが、中世に武士が台頭し幕府を開くと、政権を担うイデオロギーが必要になった。その際、「天下」あるいは「天道」という考え方は、朝廷を相対化するうえで有効な思想となったのだ。

 鎌倉幕府から室町幕府に政権が交代すると、「天下」という考え方は政権交代を正当化する理念となった(「易姓革命論」)。さらに戦国時代以降になると、「天下」は「日本全国」、全国支配の拠点である「京都」(あるいは畿内)、また信長・秀吉・家康といった権力者(天下人)を示す言葉になったのだ。

 以上の説明で注意すべきは、「天下」が「日本全国」だけでなく「京都」(あるいは畿内)を意味したということである。近年において、信長がいうところの「天下」とは、「日本全国」ではないと指摘されている。その点をもう少し考えてみよう。

■実は違った「天下」の意味

 近年の研究によって、「天下」とは将軍が支配する「畿内」を示し、それが当時の共通認識であることが明らかになった。その研究によると、「天下」の意味は次の4つに集約できるという。

 1 地理的空間においては京都を中核とする世界。

 2 足利義昭や織田信長など特定の個人を離れた存在。

 3 大名の管轄する「国」とは区別される将軍の管轄領域を指す場合。

 4 広く注目を集め「輿論」を形成する公的な場。

 この場合、1と3は同じ意味であることは明白であり、ここまで挙げてきた例とも一致する。当時においては、「天下」が「日本全国」を意味する例は少ないのだ。

 信長は「天下布武」と刻印された朱印を用い、文書を発給していた。しかし、この「天下布武」が従来の「全国統一」を意味するならば、受け取った大名にとっては宣戦布告と受け取らざるを得ない。わざわざ信長が敵を作るようなことをしたとは、とうてい考えられないと指摘されている。

 永禄11年(1568)10月、信長は義昭を推戴して上洛し、畿内を平定すべく戦いに明け暮れた。結果、畿内に平和と秩序が戻り、「天下」が安泰になったといえよう。

■信長にとっての天下とは

 こうした点を踏まえて考えるならば、信長が「畿内」を平定することを一義に置いており、それを阻む勢力とは徹底抗戦で退けようとしたのは疑いない。そして、信長は見事に打ち勝った。

 天正元年(1573)に信長は将軍・足利義昭と袂を分かつが、義昭は各地の大名に支援を求め、「信長包囲網」を形成。このとき義昭が目論んだのは、上洛と室町幕府の再興だった。上洛と幕府の再興は、義昭にとっての「天下」を意味しよう。

 しかし、義昭が上洛し畿内を制圧したならば、「天下(=畿内)」は再び乱れてしまう。天正8年から信長は「天下一統」という言葉を用いるが、それは義昭に与する諸大名を討伐し「信長包囲網」を崩壊させ、同時に義昭の上洛を阻止することにより、「天下(=畿内)」の静謐を図るということを意味する。

 このように考えるならば、信長は必ずしも「全国統一」という意味での「天下統一」を目論んでいなかったようだ。逆に、幕府や朝廷を温存し、京都を中心とした畿内に平和をもたらそうと努力した様子がうかがえる。そうなると、我々が抱いている信長の「天下統一」=「全国統一」という考え方は、改められなくてはならないだろう。

【主要参考文献】

神田千里『織田信長』(ちくま新書、2014年)

渡邊大門編『虚像の織田信長 覆された九つの定説』(柏書房、2020年)

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『蔦屋重三郎と江戸メディア史』星海社新書『播磨・但馬・丹波・摂津・淡路の戦国史』法律文化社、『戦国大名の家中抗争』星海社新書、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房など多数。

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