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講談師「松之丞」改メ「神田伯山」の披露興行は、あきらかに事件である

堀井憲一郎コラムニスト
新宿末廣亭で配られた8日目の整理券(著者撮影)

百年に一度の芸人“神田伯山”を見ようと人が殺到している“事件”

この2月11日から始まった「松之丞」改メ「神田伯山」の襲名・真打昇進披露興行は事件である。

とんでもない数の客が寄席に押し寄せ、連日、入りきれないでいる。

ここ何十年もこんな「芸人」は演芸界に出現しなかったし、今後もすぐに現れるとはおもえない。

百年に一度の芸人、と言っても、さほどの言い過ぎにならないだろう。

稀有な芸人が2010年代の講談界に出現し、2020年の東京の寄席を揺るがしている。

局地的で限定的ではあるが、つまり大きなマスコミが大きく取り上げるほどではないが、でも演芸世界と寄席に通う者にとって、とんでもなく大きな「事件」である。

落語家や講談師は「真打」という位にあがると、その披露をする。

新真打を主任とした10日間興行をそれぞれの寄席でおこなう。

途中休憩のあとに、新真打は幹部と一緒に高座に並び、この者が昇進しましたという「口上」が述べられる横で、黙って手を付いて神妙に座っている。そのあと興行の最後に出てきて、一席を演じる(いわゆるトリをとる)。

ふだんの寄席興行にちょっとだけ演出をくわえた興行である。

新真打の披露興行ではあるが、たくさんの芸人が出る。おもしろい落語をやったり、あまりおもしろくない落語をやったり、漫才やったり、ホイットニー・ヒューストンを歌ったり、いろいろ見せてくれる。お目当ての新真打は最後に少し長めに出てくるばかりである。

そういう会である。

新真打の持ち時間は長くて30分くらい。そんなにたっぷり見られるわけではない。独演会に行ったほうが、もっとたくさん見られる。

そういう興行であるにもかかわらず「松之丞・改メ・神田伯山」の披露興行にはとんでもない数の客が押しかけている。

なぜ、そんなに人が殺到しているのか。

ひとつは、松之丞のチケットがなかなか手に入らなかったからだ。

いつもすぐに売り切れた。

なかなかライブで見られない。

でも寄席は前売り券を出さない。当日券しか売らない。それは昇進披露興行でも同じである。

がんばって並べば松之丞(改メ神田伯山)を見られる。それで殺到しているのだとおもわれる。

また、独演会にもよく通う常連さんや贔屓筋は、真打昇進という晴れの舞台を是が非でも見ようと殺到するだろう。

それがあいまって、予想を超えた「事件といっていいほど」の人が寄席に駆けつけている。

名人神田伯山がこれから出現するだろうという熱気と期待

客数は連日、寄席のキャパを超えているようだ。

2月11日から2月20日までおこなわれた新宿の末廣亭では、連日、徹夜組が出ていた。

披露興行の開演は夕方の5時少し前である。それに向け、前夜の興行が終わった夜の9時すぎから並び出す熱いファンがいるのだ。熱すぎる。

そのまま20時間並ばせておくわけにもいかず、朝早くに整理券が配られ、列はいったんバラされる。

再び午後4時すぎに整理券を持った数百人が集まり、末広亭周辺に番号順に並ぶ。係員の誘導にしたがってしずしずと寄席に入る。400人を案内しているので30分以上かかり、前座の高座が始まってもまだ、客席案内が続いていたりする。そうやって夜の真打興行が始まる(前座の高座は開演前の余興みたいなものなので、真剣に見なくてよろしい)。

この披露興行の最中に、たまたま末広亭の前を若者を連れて通ったとき、これは何ですかと聞かれたので説明したら「その人はうまいんですか、すごいんですか、名人なんですか」と矢継ぎばやに質問された。

「うまいとおもうし、かなりの確率ですごい高座を見られる可能性がある。ただ、まだ若いから名人と呼ばれているわけではない。これから名人になっていくさまを、みんなで見つめている途中だ」と説明したら、しきりに感心していた。

説明しながら「だったら、この披露興行は、がんばって見ておかなければいけない」とおもいいたった。

神田伯山の芸そのものは、おそらくそんなに変わらない。十年前に見たときからすごい熱気でまきこんでいくタイプだな、と感心して見ている。その芸の方向性は変わらない。

ただ、これだけ期待感いっぱいの客に囲まれた「披露興行」は特別だろう。ここでの熱気にもまれて、より風格を増していくはずだ。

歴史に名を残す名人を作るのは、客である。

徹夜をし、もしくはまだ暗い朝から並び、がんばって寄席にたどりついた客たちの期待は、いやがうえにも高い。

そのすさまじいプレッシャーを楽々と越えていかないと名人は生まれない。

その状況でも客を圧倒する芸を見せ、すべての客を満足させ、それが語り伝えられ「六代目伯山という名人」が生まれる。

やはり見たほうがいいな、とおもって、出向いた。

開演7時間前に並びはじめて整理券番号は239番

どれぐらいの時間に行けば、見られたのか。

いくつかの噂から、朝に整理券を取れば、何とかなると知って、まず、興行8日目、2月18日火曜の朝に末広亭に行ってみた。

ちょっとゆっくりめ、午前9時45分ころ(開演7時間前)に末広亭前にたどりつくと10人ほどしか並んでいない。何でだろうと見ると、先頭のところに「次の配布は10時00分、225番から」との表示があった。

どうやら徹夜組を含めた熱狂的な連中に対しては、朝8時か9時ころから整理券を渡し、その配布が一段落して、係の人はいったん引っ込んだみたいである。第二次整理券配布が午前10時からということのようだった。

タイミングよく、15分ほどの待ちで整理券をゲットした。番号239番。

末広亭は1階と2階に席があり、混んでるときだけ2階席が開かれる。

もちろんこの興行では2階席を全席あけている。「320番までだったら座れます」と整理券配布のときに教えてくれた。「それ以降は立ち見です」ということで、440枚(ときに450枚)ほど配っているらしい。100人ほど立ち見である。

200人少しが1階に座れ、220番前後から2階に案内される。

239番だと2階席の最前列だった。

見やすいのだが、板の間にじかに座るので、足をどう組むかがむずかしい(何度か組み替えるしかない)。狭くて窮屈でもある。でもしっかり見られた。

この日の整理券は夕方近くまで配布されていたようだ。

もっと早く行けばどうなのか、と翌日も出向いてみた。

2月19日水曜。興行9日目。

こんどは朝5時に起きて、副都心線の、始発の次の次の電車で新宿三丁目駅で降りて、末広亭前に着いたのは、まだ暗い午前5時40分。

けっこう並んでいる。

先頭からざっと数えて40人少々。

8時間前から並んでいる徹夜組の先頭集団と、始発でやってきて1時間ほど並んだばかりという集団の区切り目が、ひとめでわかる。

装備が違う。

徹夜組は冬山のキャンプのような大装備で何かにくるまって座っているが、始発組は比較的軽装で立っている。

この日は、5時台に着けば100番以内の整理券で、1階の見やすい椅子席に座れる、という案配だった。ただ、これは落ち着いた9日目の話で、最初のころや、土日だと、5時半に着いても100番以内は取れなかったらしい。日によって違う。

いやしかし、あらためて早朝5時すぎに寄席に100人並んでいるって、どういう状況だよとおもう。あきらかに事件である。

早暁午前5時40分に

始発の次の次で大丈夫という読みは当たったが、気温が読めてなかった。

少しの厚着くらいの格好で出かけたら、足が冷えた。朝から2時間以上冬の戸外に立っているのは足にくる。

後半はずっと「小さく静かな反復横跳び」を繰り返して前の人の足元ばっかり見ていた。夕方の再集合のとき、靴を見て、あ、この人の次だ、とすぐわかった。暖かい冬だとはいえ、早朝の寒さを、なめてはいけない。

5時40分から並び、配布は午前8時、整理券番号は「47番」だった。お、赤穂浪士の数じゃん、と喜ぶくらいには講談は好きです(赤穂浪士伝が好き)。

いったん戻って寝て、少し仕事して、16時すぎに戻ってきて、一番見やすい椅子席に座れた。真ん中のちょっとうしろくらい。早朝2時間余の我慢のかいあって、快適に4時間の興行が見られた。

この日の整理券は午前8時すぎに320番まで配られていた。前日よりかなり早い。おそらく全整理券が昼前にはけたのではないか。夕方来た人たちには入れないと断っていた。日によって微妙に違うのだ。

そういう異様な人気である。

2月末までは浅草演芸ホール、3月1日から10日までは池袋演芸場で開かれている。おそらく全日満員札止めにしてしまうのではないだろうか。

ここ何十年も聞いたことがなく、向こう何十年も現れないだろうという歴史的な出来事である。

松之丞改メ神田伯山の高座はどうだったかというと、迫力に満ちて、客を離さなかった。その様子もおもしろかったのだが、その話は、またあらためて(これは講談の話法)。

コラムニスト

1958年生まれ。京都市出身。1984年早稲田大学卒業後より文筆業に入る。落語、ディズニーランド、テレビ番組などのポップカルチャーから社会現象の分析を行う。著書に、1970年代の世相と現代のつながりを解く『1971年の悪霊』(2019年)、日本のクリスマスの詳細な歴史『愛と狂瀾のメリークリスマス』(2017年)、落語や江戸風俗について『落語の国からのぞいてみれば』(2009年)、『落語論』(2009年)、いろんな疑問を徹底的に調べた『ホリイのずんずん調査 誰も調べなかった100の謎』(2013年)、ディズニーランドカルチャーに関して『恋するディズニー、別れるディズニー』(2017年)など。

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